香取神宮をうろうろ(9)
 香取神宮の社殿・・・

 香取の枕詞に夏衣とか大船のとかがあるようです。大船の・・・ってのは理解できますが、夏衣・・・は何かな?なんって思うわけです。まあ、語呂なんでしょうが・・・夏ねぇ〜・・・明治以前の香取神宮の祭礼って、基本的に夏は無いようなんです。これもちょっと気になる部分でもあるわけです。

 さて、ちょっと、1つの本から香取神宮とその周辺を調べてみましたが、元に戻って、書きかけだったやつを続けましょう。

 中世以降に描かれた香取神宮の図などでは、本殿の後方に一切経や大般若経を納めていた宝形造の経堂や拝殿左側には愛染明王を宮殿に安置し、夏経法楽を行っていた愛染堂(安居堂)などの仏教施設があったことのこと・・・近代デジタルライブラリー - 史料通信叢誌. 第5編 これに載っている図が多分、それに近いものなんでしょう。興味深いのは、拝殿の前の庭にある石畳の様子なんです。これって、現在の香取神宮には無いですね。

 この石畳・・・何のためなのか?中央はお偉いさんの通り道?いや・・・茅の輪くぐりの通り道みたいな気が・・・あれって、8の字をえがくように茅の輪をくぐりますから・・・この石畳が気になるのは、香取神宮の祭礼が基本的に庭で行われていたようなのでね。そういえば、神殿の前で何かをぐるぐると歩かせる話ってありますね・・・まさか、この度捕まえてきた馬です。人間ですってお偉いさんの前で円を描くように歩かせて見せびらかす儀式用の空間か?そういえば・・・この庭内ではないですが・・・白馬祭は二の鳥居前で神馬を引き立て、幣案を3周引きまわし、庭を4周するとか

まあ、神殿の前の庭での行事は、神殿前の庭の上に座り込んで神事を行うというパターンは、鹿島神宮も同じだったようですがね。

 さて、この庭の使い方がね・・・

 夜の神事だと、左のように火をたいての行事になるようで、篝火の場所になるような感じです。これは、明治時代の大饗祭大御饌御饌捧で神楽を奉納している図のようですが・・・庭上に案と座が置かれていますね。こんな所に座っての祭祀になるわけです。

 多分、これは明治期のものでしょうが、上の図と石畳の様子が違うのが気になりますがね。

 前回扱った白馬祭なども、夕方から篝火をたいての祭りでしたね。

 そういえば、鹿島神宮社務日記に、明治9年に庭上立礼は大礼服で祭典をするようにと達しがあったが、明治17年からは、衣冠着用で行うように宮内省から達しがあったとかありますね。

 ふむ、大礼服での神事って・・・面白そう・・・色々と変わるものです。

 古い香取神宮の正神殿まわりの様子は、右の図のような正神殿と、それに接した中門という形ですからね。拝殿が存在しない・・・庭上で祭礼がおこなわれるのが原則という事になるのでしょう。下の中門が書かれた図では御神木が書かれていののがちょっと気にかかります。建物を示した図であるから神木が省略されているのか?というのもありますが・・・別の図からすると、中門が御本殿の中心からずれているのは、中門の脇に、御神木があるからのようです。そして、御神木の南に御留守があることも確認できていますから、現在の本殿とは違った配置になっているという事になります。

 元禄13年の造営では、この中門の代わりに大きな拝殿をこしらえたので、本殿の位置を20mほど下げる事になるわけです。

 また、ここで気になるのは、この中門の役割は?そんなものも気になってしまいます。この中門の構造が良くわからない・・・左の図でも御留守の位置が違うような?江戸時代には、御留守は・・・上の図と同じになったいるようですが・・・室町期は違ったのか?それとも、例によって仮御本殿=愛染堂=アサメトノが御留守に使われていたのか?

 この中門も儀式空間の可能性がありますからね。拝殿機能を持った中門なのかもしれません。こういった構造の社殿について・・・どこかで見たはず・・・

 そうそう、鹿島神宮の祖霊社の拝殿・・・中門の様なものなのかもしれません。ただ、この祖霊社の本殿・拝殿は成蹊学園に昭和13年に建立された報命神社で、古神道学者の土田誠一校長の神ながらの道に立脚したものですから・・・どのようなものをモデルにデザインされたのかちょっと分かりません。この報命神社の本殿・拝殿が昭和21に鹿島神宮に寄贈され祖霊社となったものです。この拝殿は儀式空間を持っている門の様なものなんです。

 写真は・・・左のやつですね。これが鹿島神宮の祖霊社の拝殿なんです。雰囲気は八脚門なんでしょう。その全体が板張りになっています。ここで、礼拝が行われるのか?

 実際に儀式で使われているところを見たことがないので何とも言えないのですが・・・

 でも・・・この、本殿・拝殿が学校の施設として作られたやつなんで・・・授業もできる多目的スペースですかね?ちょっと気になるわけです。

 でも香取神宮の古い形の、中門と正神殿という関係のような気がしてくるというわけです。つまり、江戸幕府が建立した、当時最新流行の本殿・幣殿・拝殿+楼門という形式前の古いタイプの神社の形であるという事なんでしょう。

 香取神宮などの古い祭礼の次第など眺めると何かが見えてくるのかもしれませんね。

 神社か・・・神社ってどんなものか?これって結構厄介かも?

 かなり冗談みたいなものですが、右のやつが神社建築の変遷をなんとなく絵にしてみたものです。手抜き画像なんで・・・

 神さまの依り代となるのにふさわしい石がありました。Aのように、神様の依り代の石とその周りの禁足地を定めました。この前で、ぺこり、深く頭を下げてちょっとお願い、柏手2つ、もう一度ぺこり・・・だと思うのですが・・・なんとなく、柏手は退手として打つのではないかと・・・まあ、こんなことはどうでも、その場所場所のルールですからそれに従えば良いのでしょう。そしてBは儀式の際に何か供え物が伴うようにスケールアップしたとき。Cは儀式が長くなったり、日が定まっていて、その日にどうしても行わなければならず、天気をも考慮するようになったら。Dは、内々だけではなく参列者もいるほど凄くなったら。Eは依り代だけじゃ物足りなく恒久的な人工の立派なものが必要になった時・・・こうなると、依り代ではないですから、本殿・幣殿・拝殿の基本形が成立するような感じですね。まあ、Dの状態から禁足地が広がって、その場所を場がめる場所としての拝殿が置かれるって場合もあるでしょうけど・・・

 さて、馬鹿なことはこの辺にして・・・でも、基本はこういった儀式空間という事なんでしょうけど・・・庭の上の神事で良いのではないかと・・・しかし・・・古い図では本殿の正面に、御神木が存在しますから・・・それが気になるわけです。

 ちょっと強引な合成写真を作ってみました。鹿島神宮の奥宮に、鹿島神宮の祖霊社をくっつけて、さらにその横に、香取神宮の御神木を置いてみました。

 ふむ、かなり強引に・・・かなり不自然な感じはしますが、手持ちの写真でいい加減に合成したものですから仕方ないでしょうが・・・今度から、写真を撮るルールを決めておかないと・・・常に合成を念頭において・・・

 まあ、なんでもイメージ化するって重要なことですね。あ、三本杉を後ろに背負わせるのを忘れた・・・しかし、神殿正面にこんな神木があると、祭祀はどうなる?

 まあ、古い時代のイメージは、これに近いと、勝手に信じていますが・・・問題は神仏習合と、本殿が存在しない時代もありますから、そういった時期の祭礼というのも気になるのです。まあ、本殿がなかったら・・・例によって砂を盛って本殿にかえるという大技もありますし・・・

 神社というのも、その時代のニーズで変化していくものですから・・・そういえば、鹿島神宮は大規模な工事を行っていますね。何年か前に、発掘調査を行っていましたから、そのうちやるとは思っていましたが・・・社務所裏の谷津の改変・・・なかなか凄いことになりそうな・・・

 本殿正面、多分、現在の場所に本殿が移転してきたときには、工事を行っている谷津から本殿への参道があったのではないかと思っているのですが・・・その部分がすっかり、掘り起こされて四角な空間になってしまいました。右のような、広い空間が生まれる事になります。

 遥か昔、素晴らしい景色だった所ですけどね。武徳殿から、谷津を下り、祠があったっけ。小さな橋を渡り、社務所裏の坂を上り、仮殿脇にでる道ですね。記憶では大きな杉が3本か4本ぐらいはあったような?

 きっと、伐採されてどこかにおかれているか、板に挽かれて何かに使われるのを待っている・・・根本のあたりの太いのはテーブルに化けるとか・・・

 どんどん、古いものは更新されて、現代的なものへ変わるというわけです。そして・・・それでも、世界遺産に登録したくなったりするのでしょう。鎌倉なんかは厳しいよな・・・

 私の好きな空間がまた、無くなってしまったというわけです。この社務所裏の谷津は、仮殿裏のトイレの所まで入り込んでいて、トイレの所に埋まっている小さなコンクリートの擁壁の所で1mぐらい落ち込んでいたような?擁壁であったあとの鉄パイプの手すりが残ってますね。

 左の写真の場所ですね。緑のコーンが並んでいる方へも谷津が入っていたと記憶していますが、今となっては昔です。

 そういえば、ここの谷津の古い地形図がどこかにあったような気がします・・・そのうち調べてみるとしましょう。いずれにせよ、香取神宮が終わったら鹿島神宮ですからね。

 香取神宮の方は史料調査が後回しになっていましたので、香取神宮は史料調査を先行させておけば良いですから・・・

 おっと、神社は千古不易ではないというだけの話でね・・・

 合成写真を作っていたら・・・ちょっと楽しくなてきましたね。香取神宮の元老13年の造営に際しては、本殿の位置を20mほど下げ、楼門を馬場から後に下げ、楼門前の馬場を広くしています。

 このことを踏まえて、室町期の絵を模写したという図を、江戸時代の様子の上に乗せてみたんです。室町期には、本殿正面に神木があり、その脇に中門だか拝殿だかがありますから、神木を中心にそれらしい大きさにして、本殿系のブロックと、楼門系の2つのブロックにしたものを、それらしき位置に配置してみました。すると右の様な感じになるわけです。

 ただ、ちょっと気になるのは本殿の位置はこの時代はどうなっていたのか?何しろ、造替が長く行われなくて、アサメトノが事実上本殿として機能していた時期だってあるようです。

 造替は国の事業と決まってるのですから、社家側で動いて何かをするというわけではなかったようです。案外、別当寺の管轄であった、愛染堂の方が立派な感じだったのかもしれません。

 室町期の絵によると、愛染堂に相当しそうな建物には、人がいっぱい入っているような?夏経・・・インドの坊さんの風習ですね。インドの夏は雨季なので、托鉢や布施業ができないから、およそ4月から8月の雨季の期間100日は、どこぞの寺に籠って学問三昧とのこと・・・日本でも、それをやるわけです。しかし・・・雨季じゃないし、暑いから涼しい所で経を読んでるとか?少なくとも、愛染堂には畳が入っていますね。

 風通しの良い場所で、木陰なら・・・涼しいかな?なんってふと思ってしまいます。どうもぐうたらにできてるみたいでね。しかし・・・大禰宜家の日記などを眺めていると、大禰宜家ってかなり忙しいようです。金剛寶寺と不断所が争論をやるわけです。その中で、神宮側がしっかりしていないとかやるわけですね。それに対して・・・普通の別当寺は、氏子の管理・・・即ち寺受けというやつになっていて、行政と司法を受け持っているのだが、香取神宮領では、神宮が行政と司法を司っているって文句をつけるわけです。人別なども全て神宮がやってるのだ!ってね。

 まあ、神宮と呼ばれる神社ってのが、神領に対して行政権と司法権を持っている・・・さらには本来は国衙のもつ権限も行使できるような感じですね。ちょっと気になるのは、鹿島神宮で・・・ここは、鹿島大掾家が国衙の権限を行使する形をを取っていますから、香取神宮ほどは独立性が高くはないような?ただ、別当寺は鹿島神宮の香取神宮と同じように下にあったようですね。そのため、明治元年8月に、江戸幕府からの御朱印を明治政府に大宮司が返納するにあたって、これまで通り神領の政治を行いたいとの願いを出しますが、その願いは聞き届けられませんでした。ふむ、上知の際に公印である朱印を返すのか・・・どんな印だったのか?気になります。朱印帳に貰う印と同じじゃないのでしょうが・・・

 ふむ・・・なんとなく・・・妙な考えが頭の中に浮かんできました。左の室町期の絵の模写なんですが・・・楼門と神殿が離れているというより離れ過ぎているのでは?なんってね。まあ、神殿が小さいから・・・何か楼門の前が淋しいような?この楼門というか仁王門というかは何をイメージしてこの場所に作られたのか?気になりますね。

 大宮司邸は描かれているが、大禰宜邸は描かれていない?この絵図は大禰宜家の所蔵の物のようですが・・・日記の中には分司処ってのが書かれている・・・この分司処ってのが日記の中に出てきて、さまざまな請求の行き先のような感じです。なんとなく、大昔の南北の廳のような役割をしているような?この廳・・・何で読んだんだっけ?

 帳場だか銚場だっけ?鹿島神宮だと銚場の稲荷ってのがあって、もともとはそこが銚場であって、陳情を受け付けたりした役所のような機能を持っていてような・・・記憶が・・・直会を行う場所なら、宴会場だな?ああ、記憶が・・・早く思い出さないと・・・香取郡誌か何かだよ・・・ 近代デジタルライブラリー - 古事類苑. 神祇部26 故事類苑でした。鹿取志なんですけどね。南廳が祭事の事や正殿末社雑社の破損を考え、訴えを聞き神税の事を掌り・・・南廳は神祇官廳に擬えられ、北朝は太政官廳に擬えられる。とか書いてあります。中務の下の分司で事務が行われているような?

 役所としての機能はどこにあったのか?調べて納得したいものがいっぱい出てきますね。さてさて・・・

 今、享保20年ごろの大禰宜家日記も眺めていますが、なかなか面白い・・・史料纂集 香取大禰宜家日記 - 続群書類従完成会 - Google ブックス 金剛寶寺と不断所の境界争いなんですがね・・・不断所の住職が新しくなったところから色々とケチがつく話のようで・・・不断所所轄の土地の上の店が道にはみ出して営業している・・・不断所の住職は、近頃就任したばかりで良くわからんとか、そういったことなんですが・・・少し本気で読みこなさないと・・・一応、不断所は雨乞塚の辰巳だから、南東にあることは判りましたね。

 右の写真の赤い垣があるところのようです。このあたりに商店が並んでいて、それがトラブルのもとであるとの・・・鍛冶屋さんの伝さんのお母さんが住んでいて・・・とかやってます・・・商人が金剛寶寺の方に穴を掘ったとか・・・まずい、香取神宮の事務システムにも興味が・・・基本パターンは二官八省を基本にするのですから・・・神祇官・太政官に相当するのは、大宮司や大禰宜なんでしょう。中務省の下の内蔵寮が分司みたいな感じですね。おお、分飯司って「ぶんがいじ」って読むようだ・・・佐原市史も読まねば・・・一応はカメラに読ませてあるが・・・

 まあ、香取神宮の組織って、発祥は何だったのか?物語として面白いのは・・・海賊組織・・・キャプテンドレークとかも・・・ですかね?イギリスの海賊などは海夫注文とか・・・港と海員を支配しているとなるとね。キャプテンドレークの親父さんは牧師で・・・後には船団を持ち・・・という事は、あちこちで交渉事もしなければいけないし、略奪品の販路や、政治的な裏付けなどを必要としますから、行政的な手腕も必要だし・・・史上二番目の世界一周を達成し、ゴールデン・ハインド号はなんと、この航海で英国の国庫の歳入を超える額の金銀財宝をエリザベス1世に献上します。このぐらいの規模の事を海賊たちはできるのであります!ロマンがあってよさそうな・・・海夫達を統率する能力があるんですから・・・かなりの武力を持っていたのではないかと・・・何しろフツヌシを奉じていますからね。それに、香取神宮の亀甲山は城塞のような場所ですからね。

 このあたりを考え始めるとほとんど妄想のような世界に突入してしまいますね。神社というのは、文化の継承者ですから、神社に伴う様々な技術的な組織を持ていますね。料理に関しても先進ですし、着ているものだって違います。建物だって・・・さまざまな儀式に使われるものだって指導して生産するわけです。

 そうすると・・・フツヌシの名で、先進の造船技術、操船術、水上戦闘集団を持った者たちの進出、香取神宮となる場所の竹やぶの中の貴重な杉山に接した入り江に造船所の設置から始まった。なんって良いかもしれませんね。それまでは、一人か二人乗りの小さな丸木舟か竹の筏で細々と漁や交易をしたりしたのが、突如20人ぐらい乗った、高速の武装船団が現れたら?強烈な文化を感じることだと思うわけです。

 お前ら、こんな船が欲しくないか?欲しいなら、俺たちの手下になれ、さもなくば・・・わかるだろ!あの神殿に捧げ物をすればいいんだよ。年に数度の定例会に出るように、さもないと・・・お前さんらの自治権を取り上げるからな。定例会に出なければ、お前さんらの漁場が他の地区の連中に荒らされたって、俺たちは気にも留めないぞ・・・霞ヶ浦の津掟書にお前さんらの津も名前を入れておくから・・・分かったな!それから、御神井に良い水があるし、そこでは交易もできる。ただし、そこを利用するには、それなりに何かを置いていかないといけないからな。わかったな!そこでの約束事は、津に行けばわかる。鴨の1羽でも持って、津にいるでかい怖い顔をしているが、気のいい男に聞け、この男を怒らせるなよ、でかい刀を持ってて、お前らの10人ぐらいあっと言う間に切り伏せられてしまうからね、怒らせなきゃ気のいい男だ。

 まあ、神社などというのはある程度の武力の裏付けがある文化的な侵略であったのでは?なんって思えるんでね。さて、もう少し香取神宮周りの地理のチェックを重ねてみる事にしましょう。

2013.06.24












inserted by FC2 system