香取神宮をうろうろ(8)
 香取神宮の社殿・・・

 近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第8巻 紀行及日記 この本の続きですね。色々な情報が得られるものなんですが・・・なかなか先へ進まない・・・さて、現在雨乞塚として知られる諸神塚ってのは重要な場所のような感じです。なんとなく・・・堂と庫裏とか諸堂が道で切断されている寺院の形がイメージできるような気がして・・・そうであるなら・・・ってね。古いタイプの寺院って、なんとなく道端の御堂から出発して、少しずつ伽藍が整備されていく様な形のものがあるような気がします。道と広場と寺院群って感じですかね?それに対して、一定の敷地を始めから持って、そこに伽藍が配置されるやつってね。

 案外、諸神塚ってのが、広場の中央にあって、そこから道が伸びているというイメージなのかもしれないですね。そして、本堂があって、庫裡があって・・・鐘楼などの諸堂がなんとなく並んでいるが、基本は広場とそれにつながる道にすぎないから、廃寺となる以前に、勢力が衰退すると寺としてのまとまりが薄弱になって、町屋へととってかわっていき、その存在は消滅してしまう・・・そんな感じのような?・・・とにかく、この本に書かれている内容を消化してしまわねば・・・

 諸神塚より南に行き詰まるところに奥宮大神宮がある。荒魂の宮である。諸神塚の西に神宮寺がある。門は宮中町に向かっている。香取山金剛寶寺と言う。真言宗で御朱印地が二十石ある。本堂の本尊は十一面観音菩薩で身の丈は一丈六尺、春日の作になるもので、脇士に十二天を安置している。毎年一月八日から十四日まで観音修正供がある。十四日満會の夜には追難と言って賑やかな祭りがある。本堂の後ろに三重塔があって、高さは八丈七尺八寸、本尊は薬師如来である。東照大権現の神牌を安置している。本堂の前に鐘楼がある。古い鐘が下げられている。至徳三年丙寅十月の銘がある。

 神宮寺である金剛寶寺が出てきましたね。この寺はなんで詳細が不明なのやら?気になります。

 一応、絵巻の中に出てくるので、その概要は判りますが・・・かなり手抜きの絵のような気もしますが・・・仁王さんがいることは判りますね。多分、八脚門なんでしょうが・・・頭の中にある印象をそのまま描いたという感じですかね?まあ、私が描いても似たような物になっちゃうかな?

 他の書に記述されたことや、絵画からかなり詳細な伽藍構成は判りますが・・・歴史の闇の中に封印されたような感じがします。

 江戸時代の大禰宜日記には金剛寶寺の名は至るところに現れてきますが、どうも不明・・・なんだか、実務担当の大禰宜に対する、御目付け役みたい・・・旧ソ連の、軍に対する政治将校による統制みたいな感じ・・・鎌倉幕府の複数執権制・・・連署ってやつみたいな感じです。時々見え隠れする合議制・・・だから、要石と押手社の組み合わせで、要石が合議の場、その決定を認証する作業としての押印、押手社の神印・・・なんって組み合わせを考えてしまうのです。

 まあ、支配というものを考えると、そういったシステムが良いと思われますね。

 門の向きは宮中町へ向かっている・・・神宮の参道を塞ぐ形になりますね。そうしたら・・・左の図では、右に伸びる広い道は大坂であるとなりますかね?

 そうなると、この本堂は東向きに建っていることになりますかね?

 まあ、一応、そのように考えても実際の道のつながりとしてはOKと思えますが・・・

 これまた、あまり根拠はないのですが、左の図は神宮の方から眺めたものであると考えておけばよいのか・・・この図の中に諸神塚=雨乞塚が描かれていれば良いのですが・・・

 そうはいても、右の方の大きな立派な構えの家が気になります。右の方に神宮があれば、その建物が・・・大禰宜家となるわけですから・・・下総名勝図会の図なんでしょうが・・・残念なことに、この本文には、絵の内容の手がかりがほとんどありませんね。私は位置関係が知りたいのに・・・多分、右の方に神宮があって、金剛寶寺は南向きですかね。

 1月8日から14日までの観音修正供か・・・修正会・・・その年の吉祥と安穏を祈る観音様の最初の縁日に行う法要ですね。これが華やかな行事であったか・・・神仏習合ですから、神宮でも呼応するように何らかの祭式が行われていたのではないかと・・・こちらは本地ですから・・・まあ、1月7日の白馬節会、8日に元三祭当神送神事・修正会・鍬入神事、11日神楽奏始、14日追難ぐらいですかね?・・・神宮の神事の中にもちゃんとあったようです。ただ、幕末の頃は既に仏教色が排除されつつあったようですが・・・なかなか複雑・・・色川三中とかもあちこち顔を出して、何やら活動をしてたような?それはさておき・・・

 この正月の賑やかな行事は興味深いですね。特に、白馬神事は夜の神事です。上弦の月が中天にかかり、そこから始めるようです。暗くなってからの祭りって素晴らしいと思うのですが・・・まあ、近頃はやたらと明るく照明を入れての行事になってしまうのでしょうが・・・白馬祭の式次第は香取名所図絵によれば次のようなものであったとか・・・

当日は、明け方より神殿を装飾して、午後5時に庭に案を置き、座を設け、篝火設ける。
6時になると、神門外で祓式を行う、宮司以下は庭に設けられた座につく。
次に、禰宜以下、若菜の神饌を供す、この間には奏楽をおこなう。
次に、宮司は祝詞をあげる。。
次に、同官以下起座、二の鳥居前に出て列立する。
次に、神馬二等を牽きおく
次に、主典が幣及び馬面を神部雇に授ける。神部雇これを祭丁に授ける。祭丁は幣を鬣に付け、馬面をかぶせる。一同拍手する。

昔は、大宮司・大禰宜・宮之助・権禰宜・物申祝・国行事・大祝などから各神馬1頭ずつ出した。幣は幣所祝がこれを出して田令に授け、田令が神夫がこれを馬に付けた。馬面は大細工が製作して、大仏子に描かせ田令に授けて、田令はこれを神夫に授けて、神夫が馬に1・2の馬に被らせた。

次に、宮司以下、本座にもどる。
次に、神馬を引き立て、幣案を3周引きまわし、庭を4周する。このとき、神部雇は年葉を手に持って幣案の前に立つ。年葉とは、四日の山口祭に大山祇神社の頭から取った椎の葉のことである。
次に、宮司が幣を奉って拝礼。
次に、禰宜以下が拝礼。
次に、神餞を下げる。この間奏楽を行う。
次に、退手を拍ち、各々退下

 なかなか良さそうな祭りであります。ふと・・・昔の祭事って月が重要ですね。という事は・・・神宮のまわりって、今みたいな鬱蒼とした木々に包まれていなかったのでは?なんって・・・ふと、今でこそ木々や芝などが生えていますが・・・民家の近くに芝など生えて藪になってるなんってありえないですから・・・みな、燃料用に刈り取られていたはずですからね。篝火をたいての神事なんって幽玄でよろしいのでは・・・元旦から、小正月(1日〜15日)までは行事が目白押しだったようです。

 小正月までの行事の中で、観音修正供の前後に色々やっていますから、愛染明王関連の行事も、古い香取神宮の祭祀の中に隠れているのかもしれません・・・愛染明王というと・・・勝鬘院は愛染堂の夏越の祓えの大法要なんかを連想してしまいます。夏経など香取神宮の愛染堂でやってるとか・・・そう、香取神宮の祭祀は6月晦の大祓いから8月上子日まで空いていますね。この時期は、境内が愛染堂が仕切っている形になっているとか?

 しかし、明治時代に神事がものすごく改変されましたから、古来の意味が失われ完全に形骸化してしまったのか?なんって・・・白馬神事に必要な年葉を山口祭から引き継いでいるようですが、山口祭は現在は4月になっていますから・・・祭祀は時とともに変容する・・・あれ?まとまりがなくなってきたぞ・・・さて、次の文・・・

 神宮寺の側より八坂の内の一つである坂を下り500m余程の所に又見社がある。本宮の摂社である。経津主・武甕槌・天児屋三神の御子を祭っている。天雅御子の社をも言う。ここより真っ直ぐ行けば佐原へは4kmである。途中に如来寺があって、五智如来の大仏がある。船場へ帰るには社前より元の道を帰る事になる。左の方へ坂を上って100m余り行くと惣持院と言う真言宗の寺がある。一月七日に白馬祭の馬面を納める寺である。ここから小道を北の方へ行けば御船山の向かいの五反田の先に出て、船場に帰る事ができる。

 又見神社は興味深いところですね。古墳が神社に化けるというものです。本殿の下にも石室があり、本殿脇にも石室が半分露出している状態になっているものがあります。

 ここの石室の石などを眺めると・・・なんとなく、鎌倉時代に流行した、種字の入った板碑に化けているように思えますね。

 こういった種字の入った板碑も、お寺などでは敷石に化けていたりもしますからね。

 関東平野の中では、石の産出がほとんどないですから、かなり遠方から・・・又見神社の石室の石は、結晶片岩のような感じですから・・・筑波あたりですかね?筑波山のあたりは花崗岩なども出ますが、花崗岩の加工はかなり困難で、優秀な鉄鑿が現れないと細かな細工が困難ですね。鎌倉期になって真言律宗の連中が、優秀な鉄鑿を持ち込んで室町期には花崗岩製の堅牢な彫刻されたものが残されるようになります。

 そのほか、古くから使われている石材としては柔らかな銚子石がありますね。風化しやすい石なので、狛犬の様な複雑な造形物では顎が落ちたり、前足が失われたりと悲惨な状態になっているものが多いですね。

 佐原へ行く道沿いに如来寺があるようですが、これは廃寺となったとのこと。そして、惣持院は・・・良くわかりませんが、地図ではそれらしき場所には見当たりませんね。又見神社から北へ行くと御船山の向かいの五反田の先に出る?御船山の裏手を抜ける道があるという事のようですね。現在は、山林の中の道は通行が困難になっているのかもしれません。例によって、戦後すぐの航空写真を眺めると、現在と違って谷津の奥まで耕作され、森林もまた今のようにぼさっとしているのではなく、計画的に伐採・植林されたあとが見られます。1000年以上にわたって管理された森林が木材価格の低迷で顧みられなくなっているのか?ちょっと気になります。

 道なんてのは、使われなくなっても、かなりの期間その痕をたどることができますが・・・今の時期は、探索する気はしませんね。虫の恰好の餌食と・・・藪から出るとボコボコになっていたりしますから・・・この文の中で気になるのは、「船場」ですね。これは地名なのか、それとも船着き場という意味なのか?まあ、船場に帰るには社前から元の道とか、船場に帰る事ができるとなっていますから、津宮なのでしょうが・・・?ちょっと不明・・・まあいいか・・・坂とか井とかを色々と書いている本も見い出したし・・・次の文は・・・
 
 側高社は本宮の東北4kmばかりの大倉村にある。本宮第一の摂社で、祭神は良くわからない。神林は青々としていて、利根川近くにそびえたち、香取・浪逆の海から鹿島の神山まで見渡し、潮来から北西、霞ヶ浦を越えて、筑波・足尾の山どころか、日光連山までも見る事ができ、良い眺望である。

 側高社か・・・香取神宮の亀甲山のすぐ脇の小高い丘の頂上にも側高社がありますが、4kmですから、これは国道の所に看板が出てくる側高神社ですね。眺めは・・・行った事はありますが眺めは記憶ありません・・・ここも山深く・・・という印象ですね。境内をひと廻りしてるはずなんですが・・・どこから、利根川方面の眺望が開けているのか?

 高房社は本宮の南2kmばかりの山田村にある。本宮の摂社で、健葉槌命を祭る。鹿島神宮にも高房社がある。返田社は本宮の西南4kmばかりの返田村にある。これもまた摂社である。悪王子社ともいう。軻遇突智神を祭る。

 大戸社は本宮の西8kmばかりの大戸村にある。手力雄命を祭る。別に神主・大禰宜・そのほか社人が数人いて、神宮寺などもある。厳然とした摂社である。祭神については、神主一家の秘説がある。年中行事は、司召が一月一日の夜、元三祭が一月一日、青馬祭は一月七日、射的は一月十六日、勅使参向二月上の申の日、廃されている。萬燈祭二月中の巳の日の夜、軍神祭三月上の巳午の日、今は廃絶。御田植祭は四月五日、市が立つ。流鏑馬は五月五日、名越祓は六月の晦の日、新嘗祭は八月上の丑の日、市が立つ。月日祭は九月九日、相撲祭は十月二十八日夜、大饗祭十月二十九日、御戸開祭は十一月四日、側高祭十一月七日 祭礼の当日は、遠くからも人がたくさん集まって賑わしく、特に四月の神田祭、八月の新嘗祭には商人たちもやって来て、非常に賑わっている。年間の祭事は九十五回もあって、関連の祠や末社の祭事まではちょっと書き切れないほどである。昔は、神前の神楽を奏するために、勅によって楽人が決められていたと、延喜式に書かれている。

 まあ、色々と書かれていますが・・・これらの神社はまたそのうちにですね。

2013.06.21 












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