香取神宮をうろうろ(2)
 香取神宮の参道・・・
 さて、前回作った左の図がちょっと興味深いのです。なんといっても、この仮御本殿ってのが書きこまれていることなんです。仮御本殿、式年遷宮の際に神座を移して、本殿を解体して新材を以て新たな本殿を作っていたようです。

 伊勢神宮だと、隣り合う2つの用地があって、それを交互に使う事になります。ですから遷宮が行われる前後には2つの伊勢神宮の建物があることになります。どこぞのストーンサークルが2つあるのは・・・これと同じじゃないかと・・・

 さて、鹿島神宮や香取神宮での遷宮は伊勢神宮とは違って、仮殿へ神座を移動させて、本殿を解体して新たに本殿を建設します。

 鹿島神宮の場合は、今の本殿の前の物は奥宮へ化けています。そして、その前の本殿は、沼尾神社へと・・・移転して行っているようです。リユース・・・そういえば、伊勢神宮の古材はあちこちへと・・・香取神宮の奥宮の建物なども、伊勢神宮の材を使ったものですね。

 さて、香取神宮の方で興味深いのは、どうやら神座の置かれる部分は古材を使ったような感じのようで・・・何かで読んだのですが・・・ちょっと記憶が・・・まあ、暇があったら、 近代デジタルライブラリー - 続群書類従. 第3輯ノ下 神祇部 こんなのを精読するのも良いかと思うわけです。確か、神座の部分の用材の記載がないからとかそういった内容のようです。

 とにかく、本殿に対して仮殿が存在した場所は明確になりますね。ただ・・・この図の時代に建物があったのか?それは良くわかりません。アサメトノってのが仮殿の名称であるとか・・・  これでアサメトノと読むのだとさ。アサメ・・・盛りをアサって言うのかね?勢いのある女か?・・・とにかく、この仮殿になる建物の御祭神は磐裂神・根裂神だったかな?そして、遷宮の際には、これらの御祭神は、別の社へ移して遷宮の準備に入るようです。さて、鹿島神宮の仮殿も、かつては楼門の正面に存在していました。明治時代に、あちこち動かして、現在の位置に落ち着いたようです。

 右の写真が、鹿島神宮の楼門で、その奥に仮殿が見えています。現在のレイアウトとはずいぶんと違った感じのものです。ただ、この仮殿の位置はずいぶんと後ろに下げてありますね。明治14年に楼門を入ってすぐのところにあった仮殿を、高房社のあたりまで下げています。その写真ですね。その後昭和12年に、本殿の右側に並ぶようになり、昭和26年に現在の位置だったかな?

 こんな具合に、神社のレイアウトは時々変わるので厄介です。さて、香取神宮の仮御本殿がどうなっているのか?それが問題です。

 古い絵葉書を眺めても、それらしい社殿は見られません。さて・・・どこにある?

 左の写真は拝殿の様子から、昭和15年より前・・・多分、昭和11年ごろから香取神宮を改装する準備が為されたようですから、それよりも前のものと思われます。

 この写真で気になるのは、仮御本殿の位置らしき場所に榊か何かの木が植えられている事なんです。現在この場所は・・・どこだろう?神饌殿の脇、自衛艦香取の錨のあるあたり?砂が盛ってあるある所?立砂とか盛砂ってやつか・・・ここには杉は2本あったっけ?

 この立砂が仮御本殿の場所を示してるのか?

 こりゃ、この場所を確定するためには・・・行ってみないと・・・ほら、予定通り行くための口実が生まれましたね。一応は・・・このあたりの写真も撮ってきましたが、こういった場所を意識してのものじゃないし・・・そもそも、社殿は足場とシートで覆われていて社殿の写真を取る気がしなかったのでね。

 立砂と錨と神饌殿の写真は右のようなものですが・・・まさかと思うのですが、上の写真の木は、錨と立砂の間の・・・この木ですかね?

 立砂か・・・そういえば、鹿島神宮の倒壊した鳥居の跡にも立砂が盛ってありましたっけ・・・

 しかし・・・昭和15年の拝殿はあまり好きになれない・・・近頃のは、拝殿が威張っていて・・・昔の奴の方が美しく好感が持てる・・・ここでちょっと疑問が・・・旧拝殿は赤い色に塗られていますが、白木だったとか?昭和13年に移設され赤くなったとか?

 香取神宮の色彩に関する史料がないから・・・これまた、何か資料を探す必要があるような?戦前の彩色写真でもあればよいのですが、ネット上にない・・・Katori Jingu とか Katori Shrine なんって検索語を使っても出てこない・・・戦前は外人の来るような観光地ではなかったということか?

 写真を眺めつつ・・・ふと、円周魚眼を使った簡易測量システムを構築するのも良いのでは?なんって・・・問題は資金・・・シグマので6万ちょっとか・・・真上に向けて水平出しをして自分が邪魔になるから2枚撮れば、その地点での方位角が出せるから・・・地べたにカメラを置いて撮れば良いか・・・後で考えよっと・・・そういえば、商品化されているシステムがあったような?・・・グーグルアースに乗っているような360度カメラ映像ってあるといいな・・・というより、そのうち写真というとああいった奴が標準になるのかもしれませんね。

 鹿島神宮と香取神宮を比較すると、指定されている文化財に違いがあります。ちょっと気になるのは香取神宮の旧拝殿が指定されていない・・・香取町の文化財・・・なぜ?本殿・楼門だけが重要文化財、昭和15年の幣殿・拝殿・神饌殿は登録有形文化財・・・ちょっと不思議・・・原形をとどめていないのか?現在は祈祷殿となっていて・・・神楽殿とも紹介されることがあるみたいな?重文でない理由は?棟札は文化財・・・


 右の図から、古い時代の道が分かります。北東側には道が無い・・・旧参道の位置は明確・・・しかし、旧参道が整備されたのはいつの時代か?これは不明・・・廃仏毀釈の折にかなり道などいじったような感じです。そういえば・・鹿島神宮の社務日誌に、どこぞの神社から境内の改修に関して、鹿島神宮の社殿配置に関しての問い合わせがあったような・・・

 廃仏毀釈と、政府による管理で、明治時代の宗教界はかなり混乱したのではないかと思いますね。

 香取神宮に関する情報を集めて行くと・・・香取市ウェブサイト: 香取遺産(アーカイブ香取遺産) 廃仏毀釈関連の情報が出てきます。

 これによると・・・奈良時代から仏教と在来の神との信仰が混交して、神仏習合を行っていたとのこと。まあ、庶民が皮をはいでいないような丸太で竪穴式住居に暮らしてるのに、製材された材木を使った神社と立派な服で神事を行う神主は素晴らしい文化に見え、さらに当時最新の仏教文化なんって・・・これはより素晴らしいものに見えたに違いないですからね。

 ふむ、旧参道に関してヒントになる図がありますね。金剛寶寺の図を眺めると・・・

 下のやつが金剛寶寺の様子を示したものです。この図からすると、旧参道は金剛寶寺によって曲げられている事が分かります。

 という事は、廃仏毀釈によって、金剛寶寺が廃寺となりその後に図にある張り出した部分が削られて直線になったという事のようです。

 この図では三重塔・本堂・庫裡があって、山門は無いような感じです。

 どうやら、この旧参道と呼ばれているものは明治時代に直線に付け替えられたと判断してよいようです。

 そういえば・・・坂の崖が崩れて通行不能になったので、新しく道を付け替えたとかそういったものが何かの本に書かれていたような?

 どうも、記憶があいまいで・・・近代デジタルライブラリー - 仏教遭難史論 この本の中に香取神宮の廃仏毀釈の様子が書かれていますが・・・破壊と略奪だったような感じですね。破却したものは、重宝類であったはずなので・・・当然、その管理者たちは良く知っている物に違いないのに、その物の名前が上がってこない。これって不自然ですね。案外、どこかの土蔵の中に眠ってるのかもしれません。

 気になるのは、水戸藩の廃仏毀釈・・・仏法ではだめ・・・皇国だから、しかし、神道は仏とともにあったようですが、それを純化する動機が問題ですね。なんとなく、現実世界の行き詰まりを解決する手段としての廃仏毀釈・・・幕藩体制の行き詰まりと、明治維新・・・2つのの精神は似ているような?

 さて、香取の海というキーワードからすると・・・多分、最も古い参道は、御神井からの道なのでしょう。理由は、特にないのですが・・・霞ヶ浦は室町時代になって製塩が不可能なほど淡水化が進んでいったようです。これは、鹿島のあたりの北浦湖岸の集落が、太平洋側に出て製塩を行うようになった時期がその頃のようなんで・・・それより古い時代は塩水ですから、良い水が香取の海の海岸近くで湧きだして、しかもそこが入り江になっていれば尚結構となるでしょうから、鹿島神宮の御手洗の池とか、香取神宮の御神井なんてものも重要なのでしょう。

 香取神宮の御神井は、伝承によると移動しているような話になっています。神道流の由来に関連があって・・・飯篠長威斉家直の従者が神宮の御神井で馬を洗ったところ、馬も従者もたちまちにして死んでしまい、崖は崩れ御神井は埋まってしまうという話です。そして、御神井を今の場所へ移したとか・・・これに感じた家直は梅木山不断所に籠って剣の修行を行い・・・童子の形をした香取大神が梅の古木の上から声を掛け、兵法神書一巻を授けたとのこと・・・

 さて、面白そうなので航空写真に落書きしてみました。右のものですね。多分、大昔の香取の海はこんな感じだったのでしょう。遺跡や標高データを丁寧にチェックして描いたのではないのですがありませんが、学問ごっこですから・・・

 Aが香取神宮、Sが側高神社です。多分、Bが大昔のメインの船着き場で、御神井のある所です。側高社は香取神宮方面に入ってくる船を監視ししてたのでしょう。そしてFが斥候杉があった場所で・・・多分、光通信で結ばれていた・・・CDEはそれぞれ小規模な入り江ですから、大きな船は入れないと思うので・・・

 よって、古代の中心的な船着き場はBと・・・それにA神宮に一番近いから。そしてBのすぐ脇にはござ山神社がその高みにありますから・・・そして、防衛にも都合が良いし、水も出る・・・

 香取の海から神宮へ入る外敵からの防衛は、Sの側高神社からの通報で早くに警戒できるのでしょう。そして、南の陸側からの侵入者は、護国神社あたりの要害と呼ばれる所が防衛の本拠であったのでしょう。境外の摂社はそれぞれ常駐する人がいる防衛拠点と考えればOKですかね?

 やがて、海はこの場所から居なくなってしまうので・・・やがてCDEあたりが中心になり、さらに海は遠のき、津宮が香取神宮の外港になるというわけでしょう。そして、明治の御世になり・・・鉄道が佐原の町まで伸びてくると、佐原と香取神宮を結ぶ道路が整備され、美人桜というキャッチフレーズの桜並木へと発展していく・・・同時に、水運が廃れて津宮・・・鳥居河岸が衰退していくことになるのでしょう。

2013.06.11 












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