東北をうろうろ(26)
 山寺 立石寺へ・・・・3

 立石寺の奥の院までよろよろと上がってきました。そして、下から見たときに行きたいと思った場所とちょっと違うことに気付きます。そして、五大堂へと向かうわけですが、見ていないものが色々あるので、その途中もぶらつきます。

 そこで・・・ジュースの販売機・・・ふむ、ここへ飲食物を運ぶのは大変!まさか、荷物用のケーブルとか引かれているのか?それとも・・・実は裏山に自動車道路があるとか・・・どうやらその手のものはないようです。

 でも・・・案外、昔あった滑り台にキャタピラのついた運搬車が控えているとか?色々と考えてしまいます。そういえば、水は?まさか、下から水道を引いているとか?100mぐらいありますから・・・10気圧?かなり厳しいですね。そりゃ無理とは思いませんが・・・ここに、寺院があるということは、絶対に水源があるに違いないと思うわけです。

 それより、この自動販売機をどうやって上げた?人間が担ぎあげた?何しろ、途中の4寸道とかどうやって?冷蔵ショーケースなどもありますが・・・大型家電は・・・まさか山門までの配達で、そこから先はご自由に?なのですかね。

 自動販売機の商品の搬入は自販機の設置業者?あまり細かく眺めなかったので良くわかりませんね。しかし、ここまで商品を上げる作業だけでも大変ですね。

 ここの営業担当になりたくはない・・・修業をするのではないのでね。

 まあ、このあたりの建物だって、建築資材は下から人力で上げたのでしょうから、結構大変ですね。

 さて、水源は・・・明治時代の本を眺めると・・・ありました。獨鈷水というのが、奥の院の前にあるとのこと。名前の通り、慈覚大師が独鈷で突くと水が湧き出したというものです。山中唯一の井戸とのこと・・・しかし、井戸なんか見たかな?写真はあまり撮らなかったけど、記憶にありませんね。

 インターネットは便利です。ちゃんと昔の奥の院の写真があります。この写真によれば、金灯篭の後ろにあるということは・・・奥の院の前がテラスのようにのばされ、現在はその下にあるということかな?

 格子のはまった戸が気になったのですが・・・そこまでチェックしなかった・・・ここまでたどり着くのに体力を使い果たしていたのか?修験道は、体力の限界近くの、マイナス頭になったところで、頭の中に何かが降りてくることを体験するものなのか?

 私だと・・・何も感じられないタイプかも?ああ疲れた・・・思考停止、感覚が・・・ない、とかね。

 しかし、由緒ある獨鈷水は・・・金灯篭の陰どころか・・・この獨鈷水の建物は2つのバージョンがあるようです。この4本足のものと、三方を板張りにされた小屋のものと・・・どちらが古いか?多分、板張りの小屋では?

 理由は・・・石燈籠の数が違う、鐘楼の前の宝塔があるかないか・・・鐘楼の下の石組の様子が違う・・・こんなところですかね。

 この金灯篭はいつのもの?すごく立派!鋳造の山形・・・明治28年大僧正壬生優田の発願によって建立されたとのこと。小野田才助が鋳造・・・

 とにかく、ここには水があったのでこれだけの寺院が成立したということなのでしょう。水がなければ、大勢の人をこの場所にとどめることはできませんからね。しかし、井戸は隠れているのか・・・どうなっているのか?

 この立石寺も、常に変化し続けているということのようです。しかし、釈迦堂とか胎内堂などへ行きたい!一泊いくらかな?とか不謹慎な事ばかり考えてしまいます。現在、修験の人は修業しているのか?鎖場や鉄梯子などは維持されているのか?ちょっと気になりますね。案外、早朝から回峰修業の人がいるとか・・・

 残念ながら、私が出向いた時間には、そのような気配はありませんでしたね。

 さて、いよいよ五大堂へ・・・途中には三重小塔、格子で良く見えなかったな・・・ちょっと気になるのは、これって雛型?なんって・・・三重塔を奉納したい、大工に検討させて雛型を造らせ・・・予算を考えると・・・その雛型、なるべく豪華に見えるように飾れ!とりあえず、金ができるまでそれを奉納しておこう!なんって・・・でも、重箱構造とのこと・・・つまり構造検討のためのものではないようなので、これ自体で完成品なんでしょう。

 静運が寄進し華蔵院の僧の十穀静允によって納められた小塔・・・何を願ったのか?気になります。誰かの菩提を弔ったのか?僧だから・・・まさか、こういった三重塔が欲しいと願ったら、そのうちだれか大きなのを寄進する人が出るかもしれないから呼び水として、まずは雛型・・・寄進を募るための模型かな?時代は・・・永正16年;1519年ですから・・・円仁の東北巡錫の旅は829〜832年、開山は860年だから、案外開山700年記念大事業を企画しようとしたのかも知れませんね。

 華蔵院・・・なんとなく、普通の民家のような雰囲気・・・多分、植木鉢や水生植物を育ててるらしき青い桶のためですかね。親しみのもてる場所・・・入口の正面に池でも造って、栽培すると・・・しかし、ここは平地が少ないですから・・・空中庭園のようになってしまうかも?でも・・・ちょっと面白いかも?崖っぷちに伸びる池・・・

 ネット上の写真を眺めると、この数年で鉢植えが多くなってきているような?それとも・・・植物が育った?一切衆生 悉有仏性 よって 山川草木悉皆成仏 ・・・

 そういえば、土蔵のような雰囲気の一切経蔵もありましたね。なんだか、あまり写真を撮っていない・・・なぜ?記憶では・・・なぜかナチの武器庫かと・・・というのは冗談で、お寺の卍の大きなマークってあまり見ないな・・・なんって思ったからですね。ナチのマークは向きが違いますから・・・といっても、どちらも同じなのかな?スヴァスティカってやつですが・・・吉祥のマークです。

 最上義光御霊屋も眺めた・・・記念館はあまり興味がなかった・・・大正天皇が休まれた・・・帰って来てから、あの病弱と言われた大正天皇は東宮時代は精力的に日本の回っていたんだと・・・ベルツだったかな?東宮は東京が嫌いで、旅行に行きたがっているとか・・・そんなようなことを書いてたっけ・・・と、ちょっと関心を持って調べると・・・

 この東宮の旅行の度に、日本国内の衛生状況が飛躍的に改善・・・理由は、東宮に何かがあったら大変!食べ物の検査などなど・・・これまた強権によって行われたとのこと。そういえば、どこぞの殿様は、風呂の水も運んで旅行したとか・・・

 宿泊、休憩に使う建物などは、徹底的な除菌が行われたとか、立石寺の記念館=東宮行在所も新しい建物を建てれば、それはきれいでOK!なんって考えたのでしょうか?とにかく・・・

 明治41年;1908年地方及び特別工兵演習見学で9月8日から10月10日まで東北6県を回ります。9月18日に立石寺に立ち寄られることが決まります。立石寺での昼食を兼ねた小休止のための建物として、郡費2092円95銭1厘が建設費として計上されます。

 建てる場所は、胎内潜りの向かいに当たる、茶寮という建物を動かして、その場所に建設することになります。現在、この茶寮はないようですから・・・案外、この茶寮が、眺めが良いから、ここを使おうよ!それに対して、ありゃ汚い、掃除したって駄目だ!何かあったら大変だ!新しいやつを建てよう!となったのでしょう。その上、郡の役人が金を出すんだから、茶寮の代わりに、新しい建物を造ろうや!

 茶寮の建物は大きな開口部を持つ景色を眺めながらお茶を啜るにはよさそうな建物のようです。この茶寮はって呼ばれていたようです。こいつで、画像検索をかけると、中国のあずまやの類がたくさん出てきますから、休憩所のようなものだったのでしょう。

 右の写真の小さな建物が茶寮の建物です。2つの建物を比べると、確かに、次期のわが国の元首となられるお方を入れるには、ちょっとしょぼい・・・

 茶寮を25円で少し南へ移動させます。そして、3間の廊下で新しく建てる行在所とつなぐ形になります。茶寮を警備と、賄いの場所として、東宮侍従連が使うことになります。残念なことに、茶寮は昭和53年に建物の石垣が崩壊して、その際に倒壊撤去となったようです。

 さて、この建物は着工は8月14日、棟上げは9月9日、この後屋根と内装を仕上げ・・・行啓の9月18日までに、なんと千段を越える石段も整備されたそうです。このときの整備の結果が現在見る形の原型のようです。

 さて、行啓当日は10時40分高橋のたもとで下車、徒歩でこの橋を渡り対岸から立石寺を眺めます。そして川の生け簀の岩魚を見ます。本坊で休憩、宝物、鹿子踊りを眺め、山登り・・・11時45分行在所に到着、昼食、椅子から立って縁側まで進まれて、ここからの眺めを楽しんだとのこと。13時に行在所を離れ、奥の院の宝蔵前から華蔵院へと・・・に上り、院内に飾られた花を見て、新築された四阿に入った・・・なるほど・・・

 華蔵院は花を院内に飾っていた、ここでは草木をいじる伝統があるのかな?

 とにかく、こんな具合に、わずか1時間ちょっとのために2000円の建物が造られたというわけです。まあ、いまだに記念殿として存在しているのですから悪くないかも?2000円って今ならいくらぐらに相当するやら?

 さて、東宮行啓を誘致したための経済効果はかなりのものであったようです。行啓の経路になる道は、県道になるし、橋は架け替えられるわ・・・突貫工事で一度に整備されるという威力であります。

 さて、いよいよ開山堂・納経堂を経て五大堂へ!

  

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