東北をうろうろ(24)
 山寺 立石寺へ・・・・1

 いよいよ立石寺へ向かいます。山寺・・・ここへは来たいと思っていたのですが機会がなくて・・・

 実際に来てみると・・・来なければ良かったかも?なんって思えてしまいます。見上げた瞬間・・・100m以上登らねば・・・なんって思ってしまいました。

 近頃、体が重いのでね・・・

 さて、写真を撮って思うことは・・・電線が邪魔!電柱も・・・地中埋設を進めてもらわねば!なんって思えるわけです。

 まあ、写真は修正できますから、電線や電柱ぐらい簡単に消えてもらえますからね。

 実際に消してみると、かなり雰囲気が変わります。観光地の景観というのは、理想的なものをトータルに作り出す必要があるような気がしますが・・・

 町並みとか、近頃話題になることがありますが、まだまだ美しい観光地ってありませんね。京都などは色の規制などもしていますが・・・どんな具合になっているのやら?

 写真をいじりながら・・・この山は雑木の森林に覆われていて、所により杉の造林が行われているのか?なんって・・・

 杉の木より、普通の広葉樹林の方が好きなんですが・・・個人的な好みとしてはね。

 杉の林は暗く感じるので・・・元和4年の立石寺法度の山掟文書によれば・・・寺内之山林猥不可切取、但住山之人者、受学頭之内儀可辧所用之事ってありますから、管理されているわけです・・・建物を建てるための用材を確保するために造林したのか?

 山寺で広く知られている寶珠山立石寺、貞観2年;860年に清和天皇の勅願によって、慈覚大師が開いた天台宗のお寺ですね。とにかく、参道を進みます。すると、登山口とあり、根本中堂が石段の先にあるとのこと・・・

 根本中堂、本堂が見えてきました。五色の幔幕がつられていて・・・こういったものを見ると、すぐに、どのくらいの期間で洗濯?交換するのか?とか考えてしまいます。

 この建物はブナ材の建築物では日本最古・・・天台宗の道場の古形が保たれているとのこと・・・

 ふむ・・・ブナ材の建築物・・・延文元年;1356年初代山形城主 斯波兼頼(最上兼頼)が再建したもの・・・室町時代には、ブナ材を加工する木工具が出揃っていたということですね。

 杉や桧のような針葉樹は、発達した木工具なしに加工することができますが、ブナのような広葉樹は加工が困難・・・それに、ブナは腐りやすい材では?そして、加工後の変形が大きいとか・・・欅の代用品としてブナは木工品に使われてきた・・・

 近くから切り出されてきたブナの巨木が建物に化け・・・ブナを切った後に杉などを植えたということなのでしょう。

 本堂を眺めて、日枝神社、芭蕉と曽良の銅像を眺めて・・・ふと、この先の登りを思い浮かべ・・・芭蕉たちは奥の院まで足をのばしたのか?気になりますね。

 山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基で、ことのほか清閑の地であるから、一見すると良いという人の勧めで、尾花沢よりとって返し、七里ばかりを進んだ。日はいまだに暮ないので、梺の坊に宿をとり、荷物を置て、山上の堂にのぼった。岩に巌を重て山となり、松や桧の古木があり、地面には苔が広がっている、岩上の院々扉を閉て物の音きこえなかった。崖のふちをめぐり、岩を這て仏閣を拝すと、佳景寂寞として心が澄んでいくのが感じられた。
 閑さや岩にしみ入蝉の声

 というわけなので、登らねば・・・と思うわけです。

 立石寺の宝物館も入ってみました。ライシャワーの円仁唐代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」の研究が展示されていました。この、入唐求法巡礼行記は立石寺を開く円仁の10年近い唐での生活を綴った日記ですね。ちょっと眺めたことがありますが、後に続く人のための手引書のような旅行記だったと・・・

近いうちに読んでみますかね。

 あと、宝物館で印象的だったのは、特別展示の地獄絵図ですね。地獄って面白いと思うのです。面白いというか・・・不思議な空間、死者を虐め抜くための場所です。しかし、死者は死ねない・・・残虐な行為を地獄の鬼たちから受けるのですが、死を追体験することになるのですが・・・生きよ生きよと涼しい風が吹くと、生き返って再び残虐な行為を受けるというものです。

 死の恐怖のない者たちをどのように虐めるのか?こいつは難しいと思うわけです。地獄で一番大変なのは・・・鬼では?何しろ、毎日毎日、死なない亡者を叩き潰すことに専念し、そのかいもなく、生きよ生きよと涼しい風が吹けば、元の木阿弥となるのですから。

 死の恐怖のないことを悟った亡者は?昨日は鬼に首をはねられた、頭の離れた体からは血が流れているのを見たよ。でも、あまり面白くない・・・やっぱり、この前の鋭い刃物が急旋回して、キラリという鋭い光を放って体を少しずつ切り刻まれるのが良かったよ。あの鋭い刃物の美しい軌道・・・芸術的な煌めき・・・そして、血の滴る青い刃物の美しさ!なんって鑑賞できるかもしれませんからね。

 ときどき鬼たちもいいことを言うんだ、酒ってのは仏の前で愚痴をこぼしさせ、世間や仏法の事をむちゃくちゃにして解脱の智慧を焼くこと火なんだとさ・・・まあ、それだから俺は地獄にいるんだけどな。

地獄・・・不思議な世界・・・

 立石倉印、こいつも興味深いものですね。これって、正倉の印でしょう?立石寺には徴税能力が備わっていたと考えればよいのかな?単なる寺院というより、東北運営のための拠点のような寺院?それとも、単純に寺領として380町を砂金1000両と麻布3000段で贖い、免租地として下賜されたことと対になる印?

 こういった印はどのような場面で使われていたのやら?紙は高級品ですからね。この印が下賜されたのは貞観2年、立石寺の開山とされる時ですが・・・多分、円仁が東国巡化の旅に出た天長六年;829年以降のある時期に立石寺の立地の決定を円仁が行っていて、経済的にも独立した寺院としての立石寺の創建となるのではないかと思いますけどね。

 さて、立石寺関連の本を色々と眺めてみますが、どれもあまり変わりがありません。史料が限定されているためなのでしょうか?ちょっと気になります。ある本では、元は、松島貞観寺と言いましたが、後に宝珠山と山号を変え、阿所川院の名もあるとのこと・・・で、現在の正式名称は宝珠山阿所川院立石寺とのこと。こんな内容が示されていますが、松島貞観寺というのは、他の本では出てこない・・・河川を利用した交通が盛んであった頃は、このあたりは松島と呼ばれていたとか・・・そういったものは目にしますが・・・

 ちょっと興味深いのは、寛永元年徳川幕府が東叡山を開創するにあたって、伝教大師作の薬師如来を近江の石津から移し、日光月光十二神将は、立石寺中堂にあった慈覚大師の作を移して、代わりに新しく作られたものがやって来て、中堂の修前料として120両が送られ、その後寺領1420石の朱印地をもらったと・・・これらの仏像は現在も東叡山寛永寺にあるとのことです。

 まあ、歴史的なことも色々と面白いのですが・・・問題の山登りが近づいてきました。 

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