東北をうろうろ(18)
 出羽三山へ・・・・4

 とりあえず、出羽三山に関する知識を少し仕入れないことには・・・というわけで、いでは文化記念館へ行ってみました。出羽三山文化の殿堂というキャッチフレーズです。エントランスで、ホラ貝を吹いてみたり・・・なかなかうまくいかないものです。

 修験の行に関するもの、国宝の五重塔や、各地の五重塔とか・・・月山の登山道の小屋とか・・・この小屋は興味深いものですね。石造りの土台と言うか竪穴の補強なのか?とにかく、石垣で囲まれたところに木の骨組みを組み立て、その上に筵のような・・・「ぬま」という藁で編んだものをのせ、さらに筵で覆って作るとか?そんな、竪穴式住居のようなものが展示されていました。

 床には、土を突き固め、その上に笹をたくさん敷いて、その上を筵で覆うというものだったとか・・・ふかふかなので、歩くと沈む・・・食器は平木って足のない御膳・・・お盆の上に置いておかないとこぼれちゃうとか・・・興味深いものです。

 ただ、あまり印象がない・・・いでは文化記念館・・・きれいなんですが・・・まあ、ちょっと忙しくて、細かな映像展示などをしっかりと見る時間というか、気分的な余裕がありませんでしたからね。出羽三山・・・広大な空間ですから。

 ここで買った、出羽三山絵日記って本は面白いです!さすがにちょっと値が張りましたが・・・2800円、信仰の裏舞台と言うか、夏山を支える人たちのお話です。それから出羽三山史、東日本の山岳信仰と講集団とか・・・散財・・・

 読む時間を作らないと・・・などと考えるわけです。いでは文化記念館を出ると、駐車場向かいの神林勝金という宿坊の屋根の修理を行っていました。こんな物の方が興味があるんで・・・

 とにかく、羽黒山を車で登って・・・いきます。

 駐車場に車を止めて・・・細い道を歩いていくと出羽三山歴史博物館が見えてきます。

 この建物ってかなり印象的・・・なんとなく・・・コンクリートで作られたものですが、なんとなく、不思議なデザイン・・・

 形が優先され収納力はあまりなさそうな感じ・・・屋根のトップの形状が、先ほど見た宿坊の屋根に似ている・・・まあ、トタンの棟の部分が・・・トタン屋根になる以前はどんな構造になっていたのやら?

 銅板とか?その前は・・・何か、象徴的な屋根なんで・・・

 博物館となると、すぐに入ってしまうという悪い癖があって・・・早速眺めてきました。

 仏像は、廃仏毀釈の折に民間に出て、コレクターが集めたものが、まわりまわって戻ってきたり・・・そういえば、高村光雲も廃仏毀釈の折に、仏像に使われている金箔とか金物を回収する業者が仏像を焼こうとするときに、親方からお金を引っ張って買い取ったりしたとか・・・

 良い品を残す事はなかなか大変・・・

 月山の銘の入った刀とか、興味深いものです・・・月山の山頂近くで鍛えられたという噂もありますが・・・多分、ブランド名としての月山なんでしょう。刀を鍛錬するには、大量の木炭が必要ですからね。

 興味深いのは銅鏡ですね。池の中から見つかったものと、個人のコレクションだったもので、年代的な広がりもある、なかなかのものがあるとのこと。磨いて姿が写るようなものだと面白いのですが、どうも錆びた鏡は面白くないのであります。

 ここで絵図を2種類買い込みましたっけ・・・廃仏棄釈前にはたくさんのお堂があることが分かりますね。

 博物館を出て少し歩くと、立派な神社が並んでいました。

 博物館もそうですが、もとは何かのお堂の跡・・・博物館は東光院と見善院という寺院の跡に建っているとのこと・・・たくさんのお堂の先に東照宮があります。

 ここに並んでいるお堂のうち阿弥陀堂が八坂神社に、大日堂が大山祇神社になっているらしいとのこと・・・

 色々と名前を変えているようです。本地か垂迹か・・・政治的な話になってしまうのでしょう・・・

 東照宮は朱塗りの美しいものです。最近のものか?と思ったほどですが、元禄3年;1690年に藩主酒井忠真造営したものとのこと・・・

 ふと、扉がね・・・ちょっと気になるんです。金物が使われていない・・・まあ、仏殿ではないので八双金物とか使われていないのか?

 しかし、この扉の旋回構造は・・・黄金堂のものと同じ・・・お竹大日堂の扉は軸回し柄杓型かな?

 これは、どうやらこのあたりの宮大工の製品で、お竹大日堂は別の地域のものなのか?など、ちょっと気になりますね。

 固く戸が閉じられていますから、中をうかがうことはできませんね。

 黒い本殿に、朱の拝殿・・・中はどうなっているのか気になりますけど・・・知りたいことを知るためにはどうすればよいのか?押し入るわけにはいかないし・・・修復の記録とか・・・結局、地元の大きめの図書館に少し通わなければならないことになるのでしょう。教育委員会で何か素敵な本を出してくれているといいのですがね。

 今回の旅行では、図書館・公民館に寄る余力はありませんから・・・そもそも、神社仏閣まわりの旅ではないので・・・でも・・・

 東照宮の次に行ったのは、霊祭殿です。かつて仏立堂で地蔵菩薩を祀ったお堂であったもので、昭和58年に改築された新しい建物です。ここで御先祖様や縁のある霊を供養したとのこと。

 道のわきには、風車が立ち並んでいます。恐山と同じパターン・・・どうも、こういった場所の風車は・・・なんとなく、子供の霊が・・・

 多分・・・後生車・天気輪・念仏車・地蔵車・菩提車・血縁車・マニ車・・・などなど、回すと早くうかばれるとか・・・

 宮沢健二の「銀河鉄道の夜」の天気輪の柱・・・どうも、風車も地面に挿してあると・・・死のイメージ・・・

 供養風車は1本500円とのこと・・・どこで製造しているのやら?ちなみに、線香は淡路島線香の風蘭が使われていました。本場淡路島製・・・全国の7割を生産するという島・・・一宮町・・・タブの木の粉を使うのが特徴でしたっけね。イヌグスとも呼ばれる木・・・杉の葉の粉を使わないことで、大きくシュアを伸ばした・・・この線香はさまざまな香りを練りこむことができるためですね。それに対して、杉の葉を使った線香は日光の特産で、杉の葉に限れば日光は日本一の生産・・・確か・・・

 霊祭殿の脇には、服をお召しになった、お地蔵様や五輪塔が・・・

 これはお寺の風景ですね。この石造物は廃仏毀釈の嵐を超えてここにあるのか?それとも、この付近で埋められ廃棄されたものを掘り出して、再び置かれたのか?気になります。

 それから・・・塔婆が山ほど納められていました。ここは、神道の山だから塔婆じゃないのでしょうが・・・神道用の塔婆で売られていたような?

 ただ、神道で使われる塔婆は上の部分がギザギザ・・・つまり五輪塔の形をしていないで、山型になっているだけでしたね。

 神霊札や霊札とか言われるようですが・・・

 そういえば、位牌も神道では霊璽って言うんでしたっけ?とにかくたくさんの霊札があげられていました。しかし、よく見ると霊札に書かれている文字が・・・居士とかあるんです。神道だと名前がそのままで、それに彦とか姫とか大人とか刀自とかがつくんでしたっけ? ざっと見ると名前+命之霊位かな・・・

 中央には東日本大震災犠牲者慰霊之塔とあります。供養が行われております。

 お地蔵さまが・・・普通の景色なんですが、廃仏毀釈を考えると・・・お地蔵さまがいる限りは、地獄もまた浄土なのか?

 人間は、都合によって・・・立派な文化財が破壊される・・・文化財というものは、人間が認定するから・・・判断する人間の価値観によって価値に変動が生じるということですね。

 普遍的な価値などはありませんから・・・価値のないと思われていたものに、価値を与える人・・・目利きにならないといけないのかな?

 まあ、先が見えることが重要なのでしょう。ただ、主義というのは、厄介ですね。

 維新というのは、単に武家の世からの維新だけではなく、文化的な意味でも維新だったのですから・・・庶民文化を変革するのはなかなか困難ということなのでしょうか?

 気になるのは、この鐘楼ですね。この鐘楼はなぜ残ったのか?

 大きくて立派なものなので残った?古いものだから?

 この鐘楼堂は元和4年;1618年に作られたものであるそうな。

 この鐘楼を見たとき・・・三内丸山遺跡の大型掘立柱建物の復元されたものを思い浮かべてしまいました。

 柱も6本だし・・・屋根も復元された竪穴式住居とほとんど変わらない雰囲気だし・・・

 ちょっと、ネット上の向きが似た感じのやつに屋根を載せてみると・・・あまり変わらないような気がしますね。屋根を載せた分、少し低くしてみましたがね。

 ただ柱が立っているだけでは面白くないですからね。縄文時代だって、江戸の初めだって技術的な違いは・・・多分、ほぞを切るとかそういった部分だけでしょう。巨木建造物の技術で重要なのは、運ぶことと立てることでは?

鐘楼の技術的な大きな差は・・・掘立柱か土台石を持ったものかでは?屋根の構造は・・・竪穴式住居とほとんど変わらないのでは?

 あ!この屋根は、トタンとかかかっていませんね。何やらシート状のものが棟にかかって押さえられている感じですね。江戸の初期の寄進ですが、モデルとなった鐘楼は、鎌倉時代のもの?

 月山のぬま小屋などを考えると、案外、縄文時代につながる意匠ってのがそのまま受け継がれていたりしてもおかしくないのかも知れませんね。

 修験って・・・山岳信仰って・・・その根は古そうですからね。さて、次はいよいよ合祭殿などのメインの建物群です。

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