東北をうろうろ(2)
 松島界隈から・・・
 塩屋崎灯台から、色々と考えながらどこを走ったやら?と言うわけでは無いのですが、結局は6号線を北上していわきにたどり着いて、再び震災の影響を思い出しました。この先に原子力発電所・・・6号線は通れない・・・と言うやつです。いわきから国道49号線で郡山というのが予定でしたが・・・なぜか、考え事をしていて・・・気づくと399号線のほうへ行っていまっていました。昨年もこの道は通りましたが、山道はあまり好まないので・・・どうしても疲れますからね。でも、昼間ですからそこそこ楽しみながら、伊達、あぶくま、角田、岩沼、仙台へとすすみます。仙台から塩釜・松島方面を考えますが、なぜか4号を直進・・・東北本線を越えたあたりで利府バイパス、石巻街道を通って松島海岸へ・・・観光地は、かなり整備が進んでいて、震災の傷跡は特に見られませんでした。塩屋崎灯台の周辺での様子とずいぶん違った感じです。松島を通り過ぎ・・・自衛隊の皆さん、ボランティアの皆さんありがとうございます。などの看板を見かけました。

 そして、国道45号線は内陸へと入っていきますから、海岸の様子は見えません。普通の山の中の風景が広がり、震災の事は頭の中から消えていきます。

 このあたりまでは、津波の被災地が見えない場所ばかりで、家々も普通のように見えました・・・しかし、この先に奇怪な光景が・・・陸前戸倉駅の先の鉄道のトンネルの周囲がなんとなく変?コンクリート製の巨大な何かが変な向きに線路の路盤はゆがみ・・・その先には・・・ありえない光景が広がっていました。

 コンクリート製の建物が押し流されている・・・津波だ・・・このあたりを地図で調べると、戸倉の集落が広がっていたのでしょうが・・・

 このときには、普通の風景に見えました。きれいに整地された?何もない広がりがあるだけでしたから、集落の痕などには気づきませんでした。

 ただ、巨大な水門が存在し、その脇におかしな2つの建物がある。そんな風にしか見えませんでした。グーグルアースで過去の戸倉の集落を見ると、この写真をとった場所から先には家々が立ち並んでいたことがわかりますが、ここからでは生活の痕は見当たらずに、津波はすごい!と思うだけでした。

 工事車両がところどころに置かれ、災害復興作業が行われているような雰囲気は感じられましたが、志津川へ入ると驚きました。

 土がむき出しになった広い平野の中に2つの大きな建物の廃墟・・・大規模開発で広い地域がむき出しになり、これから大きな団地が作られるぞ!中核になるビルが建てられ、周りに大きな町が作られる・・・1970年前後の公団の開発の様子を思い浮かべ・・・

 次の瞬間、町がなくなった跡なのだと気づきました。

 瓦礫は撤去され、何も無い空間が広がっています。車を止めて写真を撮り歩く気分にはまるでなれませんでした。

 遺跡や廃屋などは嫌いじゃありませんが、こういった大規模で、しかも感傷も一緒に瓦礫と共に撤去されてしまったような場所はどうも趣味に合わないようです。

 廃屋などは生活の跡をとどめており、どのような暮らしがそこにあったのだろうか?などと考える対象となり得ますが。このときの気分は、ここから早く立ち去りたい・・・という、思いが強かったような気がします。ある意味、抜け殻・・・抜け殻は再び何かが満たすのであろうか?

 また、考え込んでしまいました。

 夕暮れの深まる中、むなしく黄色の信号が点滅しています。元は中心街だったであろう場所の鉄骨構造の2つの建物、今後はどうなるのか?気になるものです。

 この場所は、志津川の駅前の交差点でしょうから、再び発展の中心になるのか?気になります。

 それより、これだけ何もなくなってしまうと、どのように復興してよいのか?それさえも見当がつきません。かつての、マンモス団地などは何も無い場所に作られましたが、それはベットタウンという位置づけでした。つまり、産業が存在し、莫大な労働者の需要があって100棟程度の団地が形成されていったのですが・・・

 見ての通り何も無い空間です。近くに仕事が無いのが・・・2011年2月末時点で志津川地区には8213人の人が暮らしていました。2012年3月末で6733人の人が住んでいるとのこと・・・このあたりの商圏に2000世帯弱が存在し、食料品や生活必需品はどこで?そんなことを考えながら・・・通り過ぎていきます。

 元の中心街を抜けしばらく行くと新手の案内標識を見かけました。津波浸水想定区域45号線ここまで・・・想定があるから、想定外もあるわけです。このあたりが厄介なことになるわけです。

 しかし、こういった災害や悪い思い出になることって早く忘れたいのかもしれません。実は、今回の旅行で、自宅へ向かう最終段階で、初日にどこへ行ったのか?思い出すのがかなり困難でした。経路は覚えているのですが、何を眺めてきたのか?

 写真を眺めて、思い出していると言う感じです。災害の記憶は風化しやすいようです。それは、見たくない、忘れたいと言う気持ちが強いためで、ある意味人間の防衛機制のなせる業なのかもしれません。

 ただ、現在は情報化の時代で、どこかが音頭を取って写真や被災情報や復興情報を収集するものがあれば、たとえ、記憶の中で風化しても、詳細な情報を後世に残すことができるかもしれないなと思うわけです。

 しかし、これだけ広範囲に、これだけの被害をもたらす海を、飼いならすことなどできるのか?この被害をもたらした津波に抵抗できる構造物は・・・たぶん、忘れた頃に、前と同じような中で家が立ち並び、再び津波の被害を受けることになるのではないかと思います。それが1000年先であれ、同じことが繰り返される気がしてなりません。

 ふと、縄文や弥生、古墳時代の大きな集落の跡が発見されるときがあります。その集落が発展した時代は、何らかの有意なことがあって、集落が開かれたのでしょうが・・・何かをきっかけとして、その場所が抜け殻のように省みられなくなってしまうと言うことがあるような?

 三陸の江戸時代の記録などを眺めると、時々集落が津波や飢饉で人口が限りなくゼロに近づいても、海岸では水産業を営む人が移住し、山里でも、さらに北から飢饉や寒さを逃れて一蹟を継いで行った人たちがいました。ある意味、平地が少ないところだから、そこが捨て去られることなく人が変わって受け継がれてきた部分があるようですが、これからはどうなるのでしょうか?山里の廃村の話も良く聞きますから・・・廃村と全村移住なんってずいぶんとありそうですから・・・

 今回のうろうろは、あまり良い出だしとはいえないような・・・まあ、なんとなく記録に残しておきましょう。

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