ネットの中をうろうろ(35)
  中朝国境に何が・・・(35) 興岩駅から 続き

 火田民・・・さすがに近頃はいないのでしょうか?ちょっと気になりますね。火田の現状に、ざっと目を通すと結構な耕作面積になること、傾斜が50°ぐらいの急傾斜地でも牛を入れて耕作するところがあるとか・・・これって、どうやって土が保持される?北朝鮮の山の傾斜は半端じゃないのは分かりますが・・・最初のうちは、GoogleEarthの標高データが信じられませんでしたが、どうやら、間違いではないような気もしてきましたしね。

 右の画像みたいな場所を耕すのですから・・・この斜面を見ると、これじゃ、普通のトラクターは入れないと思うのです。私もユンボで40°近い斜面を均したことがありますが、怖いものです。鉄キャタをはいているので何とかなると思ってもユンボは傾き、斜面をずり落ちて行く・・・スリリングな体験でした。

 ということは・・・わが国の74式戦車のように、車体全体を前後に左右に傾ける姿勢制御が可能な履帯をもったトラクターが必要かな?しかし、経済性からすると牛なのでしょう。右のような急傾斜地の畑を安定して走れるトラクターって厳しいな・・・バックで登って、前進で下りながら耕作かね?しかし、45°近くになると・・・どんな具合に耕作しているのか?牛の扱いが気になりますね。この本の中でも 「由来朝鮮人は牛を使役するに巧みにして、苟も人の登攀しうる所ならば必ず牛を馴駆して耕耘に従事して居るのを見るのである。」 とのこと・・・黄海道は急傾斜地の畑が多いようで、平坦地なら1日に7反、50°の傾斜地では2.5反を耕すとのこと・・・凄い・・・牛がかわいそうな気もしますが・・・50°の急傾斜地を耕す姿は今も見られるのだろうか?なんって・・・畑であり続けているなら、牛で耕作しているのでしょう。

 日帝時代には、山を大きく荒らす事を避けるために、畑となる土地の草木を燃やす事を許可制とし、簡単に許可を出さないことで対応したようです。大正8年に至って事実上の火入れの禁止・・しかし、山奥などではなかなか手が回らなかったようです。それでも、徐々に施肥するなどして普通の畑のような体裁になっていったような感じです。基本的に、火田では小作はなく、土地の質入れも皆無・・・収穫物だけで生活することはかなり困難で、旱魃等で作物が採れなくなると、草や木の根などを食べるのは火田民に限らず、一般的に行われていることであったとしています。この時代でも、食料の移出入は制限されていたようです。まあ、日本だって江戸時代は同じでしたからね。

 咸鏡北道では、普通の畑を持っている者も、それだけでは十分な収穫物が得られないので、火田を開いて耕作するものが多かったようです。火田では基本的に無施肥で4〜5年耕作し、その後およそ10年放置して、再び火田として耕作するとのこと・・・なんだ、サイクルの長い三圃式農業じゃないか・・・

 71コマあたりから、火田の成立についての記述が見られます。朝鮮の歴史の上に火田が出てくるのは、1650年代のようです。山中の開墾を認める治民策によって、山間に暮らす細民の失業離散を防いだようです。その後、1700年ごろになると耕作者の登録を行い、火田に税を課すようになります。

 こうして、火田は正式な生産体系の中に組み入れられたということのようです。しかし、基本は平地に近いところだけのようで、それほど多くはなかったようです。多分・・・推測・・・根拠なし・・・なのですが、1650年ごろから牛耕が普及したのでは?なんって、それまでは原生林の開伐そして開墾の技術が十分でなかった。火田民を特徴づけるのは、どうやら牛のようですから・・・

 ふと、気になるのは、日本での牛耕の歴史ですね・・・おぼろげな記憶では、牛耕の歴史って浅いのでは?地誌などを眺めているときに、大正時代に入ってから牛耕の伝習を受けて広まっていったとか、そういった記述を目にします。江戸時代の牛って・・・農耕に使われてたのか?少なくとも、農耕用の牛の普及はそれほどでもなかった・・・馬は耕作用にかなり使われていたようですが・・・ちょっと、調査・・・日本農業の特質と危機 ちょっと思想的に偏っていますが、89コマ以降に日本の農家の副業について書かれています。ちょっと興味深いのは、昭和の初めごろの牛の扱いは・・・肉用が少なく、食肉の3分の1は輸入とのこと、そして多くは乳牛として飼われていること、それから馬の飼育が減少し、牛の飼育の増加が見られるとのこと。120万戸ぐらいで牛が飼育されているとのこと。94コマから、日本の富農について書かれ・・・2町以上の農地を所有するものが、臨時雇いや、常雇いを置いている・・・つまり、1戸で耕作できる限界が2町程度としているような?ふむ・・・1町未満の耕地しか持たない者は383万戸、土地を所有しない小作農は156万戸か・・・日本の農業は資本化が進んでいないので、大土地所有による組織化は進んでいないということのようです。特に、農業恐慌により農作物の暴落で、資本化の機運も薄れているとか・・・そして、小作農は農業収入は大きくやっていても6割程度、残りは賃仕事を行って生活している・・・出稼ぎ者は大正9年には100万人を越えている・・・出稼ぎから常雇いの労働者になったものは、階級意識が低い・・・プロレタリア科学研究所としては面白くないようです・・・まあ、階級意識って経済的に余裕ができて初めて生まれるのでは?日々の生活に窮しているのでは高邁な理想に走れない・・・ そして99コマあたりに機械化の動きも見られるが、それ以前に、牛馬によって耕作される耕地は全耕地の54%他面積の68%畑面積の38%に過ぎない。他の部分は『原始的方法』で耕作されるとのこと・・・昭和2年の耕作用牛馬等数は223万頭、このうち115万頭は牛、他は馬であると。そして牛は増加、馬は減少を繰り返していますね。

 日本の農家の経営規模が小さいのは、伝統的に人力による耕作が中心で、牛馬の使用が限られていた事によるもののような?そして、小作などの零細農民が多く、この副業によって商品が作られていた?小作人は賃仕事を行うので、銭の持ち合わせがあったので、商品経済を活性させる役に立っていた?

 ふむ・・・案外、日本の貨幣経済の発展が、かなり早い時期から始まったのは、資本を持たない細民がその日暮らしで必要なものを銭で購っていたことのよるものか?資産のあるものは、ツケの期末清算を行っていたとか?ツケによる清算と毎回の銭による清算の違いは?そりゃ、生産物の換金によるロスまたは利益でしょうね。農産物は基礎生産物だから価値が低く、加工品は付加価値がつくので高価になる。武士の給料が米だと、自分で食べる分以外は換金、付加価値性が低いのであまり高くは売れない、米の加工品のせんべいを買うと、米を換金した分のロスとせんべいと言う付加価値の差額を支払うことになるのでかなり不利・・・なるほど、日本の商品経済の発展で、石高での支払いの限界が来た時があるのだな。米じゃなくて現金で給与を払えよ!じゃあ税金も銭で取ろう!で永高なるものが考案されたか?ふむ・・・永高が戦国期の関東武士の中で発生したのは、関東武士って零細だったのかな?その日暮らしに近く、米蔵を持たない武家・・・なんって考えてしまいます。後北条氏の動員力も、日雇い侍に対してだったのでは?と余計なことを考えてしまいます。もちろん、畑に税金をかけるための方策と言うのもあるのでしょうが・・・中世以降日本では貨幣経済が発達して行っていることは間違いないようです。キーワードは・・・荘園制の衰微と代銭納の普及、生産力を貫高で示し・・・というやつですね。

 さて、明治期の人間が、朝鮮での牛耕を見て驚嘆しているというあたりが気になります。まるで、朝鮮使節が日本の水車を見て驚いているような・・・

 読み進むと、興味深いことが分かってきます。明治27・8年に朝鮮の内政改革が行われています。日清戦争に伴うもののようですが・・・この中で、国有地への支配が緩んだようです。そして、戦乱で人が山に入り、そこで火田を耕作するようになります。そして、火田は爆発的に増え、日韓併合で火田は禁止の方向へ向かいます。原則、35°を越える斜面の耕作の禁止へ、しばらくは経過措置で黙認・・・地主に対しては林業への転換、火田民に対しては移住、定住促進・・・案外、こんな中で、間島への移住というのが一つの流行になったのでは?

 この本を読んで、1つ疑問が解けたような気がします。それは、山の中に飛び飛びに耕作地があることです。どうやら、日帝時代のルールが生きているようだということです。30°を越える急傾斜地と、保護地に指定されたところは火田にするなというやつです。新規に火田を開いてはならない・・・そういたものです。確かに、耕作地は比較的平坦で、森林は急傾斜地に残されている・・・集落から離れた自然林はそのまま保護されているように見えますからね。

 もう少し気合を入れてみれば、極相にある森林なのか、それとも二次林なのかの区別ができるかもしれませんが・・・少なくとも、45°くらいの急傾斜地は、近頃では耕作されていないということのようです。

 今では、法に従って耕作しているのか・・・急傾斜地で焼き畑を営む人たちと、それを禁ずる人間との鬩ぎ合いがあったが・・・夜刀神の話を思い浮かべてしまいました。

 1つのことが明確になりましたが・・・この本では分からないことが出てきました。それは・・・牛耕です。火田民は最下層の農民ですが・・・牛を所有しているようです?借りているのかもしれませんが・・・多くの火田民は、集落に家を持ち、代々火田民としての生活を行っているとか・・・農耕の習慣が焼き畑だということのようです。そして、一定の土地を順に焼いて耕作をするのですが、地力が回復しているので、それほどの手間をかけずに、それなりの収穫が上がる、林業などの稼ぎもあるので、それほど貧乏とは思えないような記述があったり・・・ただ、税金は最低限・・・好んで耕作される場所は、渓谷の上端の手のひらのように分かれた水の枯れたへこんだ谷であるとのこと・・・・蔵風地ですね。そして、針葉樹の生える場所ではなく広葉樹林を選ぶとか。火田を行う場所はどうやら相続の対象になるようだし・・・火田民の生活の様子は非常に下等のように見えるが・・・火入れの禁令と、追い打ちをかけるような煙草の専売制で、煙草栽培による収入の消滅が痛いらしい・・・

 しかし・・・家財道具一式、牛を飼っている・・・同時期の日本だったら?牛を飼っているのは中農から上あたりのようですから・・・身なりや生活の様子は山間僻地で、市中へ売りに行くか、行商との物々交換などで生活している・・・

 商品経済の中に浸かっているわけではないので、収入は少なくとも、食べて行くことはできる。だけれども、とても人間の生活とは思えないような中に暮らしているというだけのようです。主食は、トウキビやトウモロコシ、ジャガイモなどの粥、昼食にはダイズの粉や、シイの実を炒って挽き潰した物などを食べる・・・ふむ・・・粉食か、これって日本の山の民の生活と変わらないのでは?

 ああ、また余計なことを・・・粉にするんだから、臼が必要です。サドルカーンなのか、それともロータリーカーンなのか?WikiPediaの臼の項目はなんだか混乱したことが書かれている・・・役に立たない・・・

 右のやつは朝鮮の碾なのでしょう。火田民はこういった常設の集落の共有財産のような物は持たなかったのではないかと思うのですが・・・兎の餅つきの臼と杵と乳鉢のような物の2種類が現れてきます。粉を作るには・・・乳鉢のようなものですかね?籾すり精白は兎の餅つきの臼、製粉は乳鉢なのか?

 石の挽臼も存在しますね。日本のとはちょっと形が違いますが・・日本のやつは、上臼と下臼がどちらも円筒形で、その下に受け台とか呼ばれるトレイを置いて挽くやつですね。それに対して、画像検索で見つかるやつは、中国の下臼に粉受けがついていて、注ぎ口のようなものがあるものです。どうやら大型のものは中国型のものが見られるようです。庶民的なものは・・・ここのページに紹介されていますね。兎の餅つきに使う臼で精白し、石臼で製粉するとのこと・・・日本と同じですね。このページで紹介されている3種類の石の挽臼は受け台が木製の中国型のですから、中国から入って、石工技術が低いために2つの円筒形の上臼と下臼の組み合わせになって、日本に入ったときは石だけが入ったのでしょうか?

 ちょっと、石臼の伝播に関しても興味が出てきました・・・日本の今の形の石臼って・・・いつ頃から普及したのやら?鉱石を砕く挽臼などは、かなり早い時代に入っているようですが、確か、大宰府・・・碾磑ってやつ、これなどは輸入品かもしれませんね。それから、東大寺の東大寺碾磑門、多分ここには碾磑が設置され文化の力を見せつけていたのでは?石工技術の関係で中断し・・・良質な鏨が無くて、花崗岩などの加工ができなくなってしまった時代があったようです。そして、庶民の生活の中に現れ、嫁入り道具になるのが・・・確か、江戸中期以降では?それまでは、日本はサドルカーンか?なんって本で読んだっけ?「粉の文化史」だったっけ?

 凄い、この本ネット上に存在します。粉の文化史 ただ・・・リンク切れが激しくて・・・後で、自宅の書庫の本でも引っ張り出して眺めるとしましょう。

 多分、火田民ってのは牛耕と石臼による粉食という条件が成立したために発生したのでしょう。これによって、耕地は良くはないですが拡大したということになりますかね。

 おっと、忘れてた・・・牛です。同時代の日本では牛耕を普及させようと伝習会などが行われています。そして、牛馬耕を行える農家は中流より上・・・じゃあ、細民である火田民が牛を持っているということは?牛が安いか、牛を買えるだけの稼ぎがあるかどうかということになります。この頃、雌の子牛は30円程度で日本へ出荷しています。ですから、これよりも安く手に入れていることになるのでしょう。

 火田民の年収は・・・50円から110円位の事が火田の現状に書かれていますから年収の半分から4分の1程度となりますね。すると・・・軽自動車位の価格かね?衣類や家に金をかけるか、生産財に金をかけるかの違いか?あれ・・・いつの間にかずいぶんと書いてしまったようです。この辺で一度切って、火田民の家財と生活をもう一度確認してみるのも良いでしょう。

(2013.01.07)
















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