ネットの中をうろうろ(10)
  中朝国境に何が・・・(10) 三峰
 
 三峰、国境の街再び、興味深い場所です。なんとなく、抗日運動って面白そう・・・陰謀、ゲリラ・・・政府転覆・・・間諜・・・魅力的な言葉、千年一日のような暮らしに活を入れてくれるような・・・娯楽の無い世界だと絶対楽しい!かなり不真面目に見ているように思えるかもしれませんが・・・

 三峰を眺めようと思ったのですが、ちょっと鐘城へ逆戻りです。鐘城の情報が・・・これが凄い・・・六鎮の1つであることは分かりましたが、この要塞の全貌が・・・というのは大げさですが、鐘城の北2里から3里に渡って巨大な防衛陣地があるようです。

 GoogleEarthで3次元化したものです。手前の山頂が釣鐘のような形をしたものが、どうやら黄巾山城 42°51'15.33" N 129°50'30.06" E で、右上のが潼關鎮 42°50'24.36" N 129°49'35.06" E のようです。その間を石垣がつないでいるような感じです。およそ2kmほどの防壁ではないかと思われます。万里の長城のミニチュア判かい?このくらいの陣を作らないと、国土を守ることはできないのか?なんってね。

 朝鮮式山城の発展形なのではないかと思います。文献資料によれば、この黄巾山城の城内には大池があるとのこと・・・

 右のが、山の頂上の拡大したものです。重厚な石垣が取り巻いています。大池はちょっと確認できませんが、なかなか凄い山城に見えます。

 まさか、現近代のものではないと思われますが、これだけのものを辺境防衛に作ったのですから、六鎮を置いた李氏朝鮮の第4代国王 世宗の時代の朝鮮の国力は凄かったに違いないと思うわけです。

 一応資料は最新朝鮮地理の408コマです。

 そして、潼關鎮とその近くの。望候堂多分 42°50'20.79" N 129°49'36.99" E から、途中の川の氾濫原ではっきりしない部分が出てきますが、防壁が鐘城まで続いているように見えます。10kmを越える長大な防壁が構築されています。(多分・・・ここへ行きたいと思いますが・・・多分、絶対無理!)しかし・・・禿げ山なんで、案外六鎮の防衛網を、GoogleEarthで全て拾い出せるかもしれません・・・実地の発掘調査をせずとも、画像解析の技術とCGで復元できるかもしれませんね。

 また、新しい遊びの糸口を見つけちゃいました!学問ごっこは面白い!私は、所詮アマチュア、アマチュアはプロに馬鹿にされます。でも、遊びだからいいもん!と開き直ってしまいましょう!

 情報はひょんな所から出てきます。鐘城の三重塔・・・北朝鮮の国指定文化財の第436号で建築時期:1608年ですと・・・清正の時代より後の建物でした。雷天閣の名称で良いようです。そして、北西の隅に置かれたのは受降楼で、どうやら、女真族を追いだした所にはこの、受降楼が記念として立てられたようです。

 無くなっちゃうといけないので、ごめんなさい!雷天閣の写真は右のようなものです。基壇からの高さは高さ14.8mです。立派なものです。日本の外務省は良い資料を作ってくれています。どうやら、この建物の写真は、日本の古い写真集の中にあるという情報もあるので・・・多分、絵葉書ではないかと思いますが・・・それらしいものは、なかなか見つかりません。

 こいつも面白そう・・・制勝方略気が向いたらチェックしなきゃ・・・厳密に読むには時間がかかる・・・昔のことはそのうち・・・

 この三層の塔の古い写真が出てきました。写真の説明には受降楼とされています。これで、どうやら混乱が起こっているのでしょう。一応、外務省の地誌調査では、この建物の2つの扁額?に記されている文字がわかっています。

 そして、受降楼が街の北西の隅にあると書かれているのと、北朝鮮の国宝?登録も雷天閣ですから、多分・・・雷天閣なのでしょう。

 この写真は吉林省. 其1 (吉会線関係地方)の11コマ目に掲載されています。まだ、本文中での扱いを確認していませんから・・・受降楼かもしれない?

 一応、しつこく気になるものは探さねば・・・さあ道のりは長い、上三峰へ・・・

 さて、鉄道を中心に国境を眺めていますが、街の見方がかなり定式化してきてしまった気がします。線路をたどり駅を見つけ、都市を概観して、引き込み線やデルタ線を確認していきます。三峰の駅は蒸気機関車時代からの駅で、国境を越える線がある場所ですから、デルタ線があるかと思えば・・・無いんですね。そうなると、転車台があるはず・・・駅の構内に丸い奴を探すわけです。大抵は、機関庫がありそうなんですが・・・2002年の空中写真で確認できました。右のようなものです、すでに線路はつながっていないようなので、動くとは思えないのですが、とりあえず保存されているというわけですが、2008年には周囲の構造物もかなり撤去されています。鉄を回収したか?それとも、新しい施設を作るのか?そして、影からすると、2008年でも大きな門型のクレーンが残されているようです。給炭設備ですかね?

 この国とて変わりつつあるというわけです。貨物の引き込み線なども撤去され、興味深いことに、オベリスクも無くなっています。これってちょっと不思議・・・スローガン、記念碑の類は更新されても撤去されるのはね。

 何かが変わっているのか?この駅の機能を更新する・・・まあ、かなり前に鉄橋からレールが撤去され道路橋に変わっていますから、この駅自体は単線の単なる駅なので駅自体の重要度は低くなっているわけですからね。

 さて、国境の橋を眺めると・・・税関の建物が更新されています。青い屋根の新しい感じのものです。かつての鉄道橋は道路に変わっています。と言っても・・・この鉄道橋は、間島へ出兵するための軍用橋として始まったようです。初めは、木造の橋で人が押すトロッコで、やがて鉄橋に変わります。そして、大正14年に鉄橋のレールの間に厚さ1寸幅3尺以上の板が敷かれて、下流側には欄干が設置されたようです。橋の通行料は大人2銭子供1銭、幼児無料、自転車は2銭・・・携帯品は無料とのこと・・・

 三重塔の写真を探していたら、このあたりを走っていた咸鏡道の軽便鉄道の絵葉書がありました下のようなやつです。よく見ると・・・機関車の引くものではなく、人車鉄道のようです。そうなると、咸鏡道では・・・何かで読んだぞ・・・そう、法学士が鏡城を通って間島へ行く話・・・鏡城が鐘城になっていて・・・アジ研のインデックス・・・お!報告後25時間経たないうちに直ってる!凄い・・・北韓吉林旅行日記に 下関で大禮丸に乗って・・・午前9時津に上陸、 松本理事官を訪問して、午後2時トロッコに乗って鏡城向かう、6時に着く・・・翌日ここから牛車で羅南に行って、ここからトロッコで会寧向かうつもりだったが、手押人夫が出払っていたためすぐには出られなかった上、そうこうしている間に大雨が降ってきたので、宿をとり翌日7時にトロッコに乗って羅南出発した。輸城から龍城川の流域に沿って進み、夕暮れの迫るころに冨寧につき、宿をとる。翌朝8時に再びトロッコに乗って會寧に・・・結構な時間がかかるようです。第2艦隊報告(8)によれば、鏡城から清津や羅南の軽便鉄道は3時間、牛車ではもう少しかかるでしょう。羅南や清津から會寧までは11時間・・・直行できずに富寧で一泊・・・のんびりした旅行のようです。この旅行記も検討してみたいものです。

 さて、三峰へ話を戻して・・・

 豆満江、この川は冬季には結氷して通行は自由になるし、ここでは川幅が広くなっているので、非常に浅く、歩いて渡れる場所であるとのこと・・・増水時には渡れなくなるので、この橋を解放しようというようです。当然税関もあったのでしょうが・・・どうやら、どこでも自由に渡れるので税関はそれほど厳しくなかったような感じです。

 この、どこでも渡れるというので・・・別の橋で行われていた他とは違ったレートの関税をかけるとかできなかったのかもしれません。

 駅から撤去されたオベリスクは農業倉庫らしき所へ移っています。新しい建物もできて、よく見るとオベリスクの前の建物も更新されています。物流の中心が変わろうとしている?ということか・・・オベリスクの移動距離は300mですから・・・これって、市街を大きく変更するつもりかな?ということは・・・駅とは反対側に新しいバイパス道路を設けるということでしょうか?局子街地方貿易経路ノ変遷ニ関スル件 大正十年八月いつの時代にも、交通路の変遷による変化を憂うる声はあるものです。

 国境地帯というのは不思議な所です。見えるけどそこへは行きにくい・・・吉会鉄道関係地方調査報告書. 第1輯 (一般経済)この本は、この地域の地誌がありますね。良い参考資料に出くわします。これによれば、上三峰は、もともとは小さな村だったけれども、大正9年に図們軽便鉄道の開通で、徐々に発展し、鉄道の線路に沿って不規則な家並が広がるようになったとのこと。ここには、三峰駅と江岸の2つの駅があって、対岸の地坊とは、江岸駅でつながっている。この本が著された時には、軍が作った木橋であるようです。そして、貨物は手押しトロッコでつながっているが、乗客は徒歩で連絡する不便があり、近く鉄橋が竣工するとのこと・・・この時点1928年で、税関出張所、郵便局、警察官駐在所があるとのこと。この時期の戸数は204戸、住民は863人とのこと。

 ありました。軍の作った木造の軽便鉄道橋が・・・右のやつです。てっきり単線と思っていましたが、複線だったようです。これなら効率よく運べますね。鉄道橋は単線運転です。知りませんでした。咸北要覧 附間島琿春 この14コマです。

 このあたりは、鉄道と道路整備によって、多くの人が入り込み、貨幣経済の伸長が、新たな階層を生み出し・・・経済的な変動・・・日本人が持ちこんだものに対してどんな感情を抱いていたのやら?共産党がうまくまとめたものが目に付いたのでリンクを張っておきましょう。興味深いものです。ちょっと分からぬ符丁があって・・・気になります。日本共産党関係雑件/朝鮮共産党関係 第七巻 分割1そのうち、詳細に検討してみますかね。

 とにかく、この集落は、歴史がないようで・・・そういえば、加藤清正はこのあたりを荒らしたはずです。残念ながら加藤清正についてはあまり知らないので・・・少なくとも鐘城はあまり破壊の跡が見られませんでしたが・・・ちょっと、チェックを入れておきましょう。少なくとも會寧のあたりで戦ったようですが・・・ちょっと、會寧の予習でもしますか・・・日本戦史. 朝鮮役 (本編・附記)参謀本部が編纂したものがあって・・・これの98コマ以降に咸鏡道での様子が書かれています。

 概略は・・・咸鏡北道では清正軍がやってくるというわけで、六鎮の兵を鏡城に集め対策を練ります。鏡城から南下して、摩天嶺で迎撃することを考えますが・・・ところが清正はすでに、摩天嶺を通り過ぎていました。そして、7月17日に海汀倉で遭遇戦となり、六鎮の軍は破れます。破れた六鎮の残兵は山に引いて翌朝の再起をかけようとしますが、清正軍は夜襲をかけます。これにより、六鎮の軍は鏡城へ引き上げます。清正軍は吉州、明川を経て鏡城に迫りますが、すでに鏡城は放棄され、富寧へ進出し、7月22日古豊山、23日に編成しなおして、會寧を攻撃しようとすると、朝鮮王子の臨海君と順和君を縛って差し出して會寧の役人が投降してきます。清正は、投降を認め、城内に入り會寧の役人たちを捕虜にします。そして王子たちの縛を解いて丁重に扱います。あとは、総崩れで、士官連中を縛って投降してくるものが沢山出るとのこと・・・これで咸鏡道は平定されます。・・・というわけで、會寧より先は戦乱はなく、街は保存されたということのようです。

 8月に清正は捕虜にした両王子を護衛をつけて、鏡城に送ります。そして、會寧の人を案内人に、豆満江を渡り間島に住む女真族の兀良哈(オランカイ)の討伐のために兵を進めます。いくつかの拠点を落として8月13日門厳洞から鐘城にまわり、豆満江沿いに穏城、慶源、慶興を経て、海岸の西水羅から海沿いに鏡城へ戻ってきます。

 まあ、こんな具合です。ですから、朝鮮領内の會寧から先は戦乱はなく、文物はそのまま残ったということになるようです。

 この上三峰で気になるのは・・・右の画像の、街から墓地へ行く道の途中にある土盛りした四角い空間なんです。この空間は何なのか?街から墓地に続く道は基本的には、この1本で、墓地には必ずこの区画を通らなければならないようです。

 寺院などがあるのなら分からないのでもないのですが・・・このあたりの葬制はどうなっているのか?案外、この四角の空間に遺体を置いて、いわゆる殯を行うのかな?とか・・・

 葬制に関する資料は少なくて・・・特に、この北辺の風俗に関しては少ないようです。一応心に留めておいて、何か資料に出くわすことに期待しましょう。

(2012.11.16)

inserted by FC2 system