ネットの中をうろうろ(9)
  中朝国境に何が・・・(9) 鐘城は? 続き
 
 鐘城、興味深い場所です。古くからある街のようなのですが・・・街に関する資料が少なくて・・・

 右の写真が鐘城の主たる部分ですが、どこが中心やら?

 とりあえず、街の中央には基壇を持った3層のかなり大きな塔があります。四角い基壇の一辺はおよそ22mほどあります。多分、芬皇寺石塔に似たものではないかと思います。

 この街は、豆満江を守る六鎮のうちの1つであるとのこと、まあ、城が置かれた場所だということで、その6つの街は富寧、會寧、鐘城、穏城、慶源、慶興であると朝鮮王国って本に書いてあります。なかなか元気な文体であります。

 この六鎮が置かれたのは、李氏朝鮮の第4代国王 世宗の時代です。官制によると結氷の期間中に北道兵馬節度使は行営に戻ってしまうとのこと、行営?この地名は何かでちらりと見たような?咸鏡北道行営面・・・22管理区域の中央にある場所・・・この場所に冬は駐屯しているのでしょう。富寧までは?、會寧まで5里半、鐘城まで6里半、穏城まで9里、慶源まで11里、慶興まで12里とか・・・22管理区域・・・強制収容所の区域・・・まあ、屯田兵は流刑に近いような?志願したかそれとも強制移住かの違い、気分の問題かもしれませんが、見かけは変わらないような・・・屯田兵も逃げだせば、ただちに犯罪者・・・

 さて、結氷期についてこの本は論じていて・・・兵隊は引き揚げるから、そのあとは国境を勝手に行き来して貿易を行っているとのこと、一時期中国側がうるさいことを言っていたようだが、それでも行き来は絶えなかった・・・

 右の写真は、日本軍が氷結した川の上を移動している様子だとのこと・・・これじゃあ、道路より移動が楽なような気がします。対岸の川に接する山肌の様子を見ると、あまり道はよさそうではないですからね。

 河川調査の報告書などを眺めると、豆満江の測量調査は大正15年に行われているが、軍機にかかるので掲載できないとのこと・・・この地域はちょっと難しい場所だったようです。河川管理のために雨量の記録はあるようです。鐘城の地点番号は262だって・・・朝鮮河川調査年報. 昭和13年度によれば・・・どうやら大きな洪水があって、それで調査報告を作ったようです。この本には、朝鮮の河川を示した地図があります。ということは、朝鮮半島の地図の良いのが国土地理院にあるのかもしれませんね?調べてみると・・・・軍事機密及秘密地図受領の件を見ると、軍機になっている地図があるようです。ネットの上にはこの手の地図は存在しないようです。ただ、外務省の調査した地誌とGoogleEarthを突き合わせれば、かなり精度のよい地図が出来上がりそうな気もします。

 なんだか・・・資料整理を先にしないといけないような?北朝鮮観光のつもりで気軽に始めたのですが、大量の資料があるので・・・穏城なんか、街の変遷もたどれそうな感じです。そのうち、豆満江を真面目に研究するか?

 しかし、この豆満江がらみの面白い本を見出しました。国境警察物語 一新聞記者の手帖よりってのですね。豆満江での密輸の手口・・・

 朝鮮総督府のさまざまな刊行物を眺めますが、どうもこの鐘城は引っかかってきません。しかし、統計資料はきちんとあります。たとえば、この鍾關面には大正14年の国勢調査によると1098世帯、男3039人女2818人合わせて5857人が暮らしているとのこと。火災の統計資料もあるし、色々な事がわかりますが、どうも街の様子については分かりません。街中の立派な塔とか・・・とにかく、明治15年ごろから、国境紛争が起こっています。中国当局は、鐘城の向かいの間島から朝鮮人の引き上げ要請を朝鮮政府に出してきます。そして白頭山に置かれた国境線についての定めの碑文の解釈で、間島の帰属が揉めるというわけです。

 外務省の昔の北辺事情視察報告書進達ノ件というやつに、この街の情報があります。この街は1間半ほどの高さの石の壁で取り囲まれていて、街には東西南北に4つの門を備えているとのこと、東は城東門、西は金和門、南は迎和門、北の門は壊れていてその名前は分からない。南門を入ると三層の高楼がそびえ立っている。この楼の南には守旺楼と題され、北には雷天閣と題されている。街の東北の隅には受降楼、北西には鎮北楼、西門の脇には鎮西楼がある、これらは李朝が女真族を討伐して朝鮮の領土としたときの記念物だとのこと。北辺事情視察報告書進達ノ件

 残念ながら、この三層の高楼は確認できますが、門とその他の塔は確認できません・・・ふと、街が城壁に囲まれ、四隅に塔が建てられていたら・・・これも、強制収容所のように見えるのではないかと・・・

 とにかく、この塔に関して調べることができました。インターネットの威力です。この街はなるべく再開発などはしない方が良いような気がします。この街の近くをかつて、加藤清正が通ったはずです。兀良哈への進攻でね。そのとき、この街は破壊されなかったようですから。間違いなく、観光資源になるのでは?意外と、北朝鮮には古いものが残っているのかも知れません・・・

 資料はあるところにはあるし、結構公開されているのだということがわかってきました。段々、検索用のキーワードが増えて来たので、文献資料あさりがうまくなってきました。おかげで、読書量が多くなり、進みが遅くなり、すでに書いたものに補足したいことが沢山出てきますね。まあ、そのうち資料を総動員して、新規にやればよいことですからね。

 お遊びでやっていますが、今の研究者ってこういった資料を縦横に使えますから、凄い研究ができそうな・・・私の時代には、こんなことはできなかった・・・国会図書館、国立公文書館などなどを巡り歩いて、司書を困らせ・・・どれだけの時間がかかるのだろう?まあ、司書が優秀だと、資料はすぐに集まりますが・・・

 鐘城の警察の日誌の抜書も面白かったし、鐘城の現地官吏の罷免の資料も面白かったし・・・しかし、気になるのは鐘城も護岸工事などの予定が入っているのですが、軍機にふれるらしく・・・計画の概要も分からない・・・ちょっと不思議・・・

 この地方には、ロシア人も鉱業権を得て入っているようですが・・・砂金採取・・・ニスチンスキー・・・色々と、調べると、私がチェックしている文書の本気の研究者もずいぶんいるような・・・日本国外にも、どんな研究成果が現れるやら?

 明治43年に鐘城に派遣されていた憲兵の数は下士官1名上等兵7名補助員8名馬は2頭とのこと・・・憲兵司令部 韓国駐箚憲兵隊人馬配置の件 これには81ページ以降、良い地図がついています。88ページが、間島がらみのチェックにはよさそうです。この憲兵舎の土地は1000坪ほど必要だったようです。これは、官有地からの移管で、その上に民間の建物があって、それを借りて入っていたようです。そして、後にその建物を264円で買い上げています。

 もうひとつ史料が・・・鐘城には1中隊が駐屯しています。1中隊ですから、将校5名、下士10名、兵卒120名、看護手1名の136名が駐屯していたということになります。大正15年の陸軍平時編制中改正の件

 何やら・・・大正8年4月7日の憲兵隊からの電文で、鐘城で独立運動の示威が行われる予定で、独立宣言書が鐘城の邑内で印刷されているとか・・・大正8年4月7日 朝憲機第175号 独立運動に関する件(国外第23報)興味深い・・・歴史の裏舞台を覗いているような気分です。3・1運動なども調べたくなります。

 鐘城を調べて・・・調査の仕方がわかってきました!ネットの中をうろうろするのがうまくなってきましたから、先へ進みましょう!

(2012.11.14)

inserted by FC2 system