歴史の中をうろうろ 文献(1)

北韓吉林旅行日記

 北韓吉林旅行記 明治41年8月から10月にかけての法学士 大里武八郎の手記です。これをちょっと解析してみましょう。古い文献は地図とかついていないし、読み解いていく作業はなかなか面倒です。興味の赴くままに、こういった旅行記に図版や関連資料を適当に付け加えてみることにします。

 著者の大里武八郎は花輪生まれ明治5年から昭和47年まで生きた人で、法学士。大正10年6月30日に従五位 等官三等 台湾総督府法院判官正六位に敘敘、最終官位は正四位勲三等・・・この人物、台湾で高等法院長を務めたりします。
 なかなか興味深い人物で、退官後花輪に戻り鹿角の方言の研究を行います。花輪を中心とした方言の意味や語源を調べ、昭和28年に「鹿角方言考」を刊行、序文は柳田國男が書いています。大里は旧制第一高等学校在学中に一級下の柳田國男と知り合っています。そして、大里を通じて鹿角出身者の東京会であった鹿友会とつながりを持つようになったとのこと。

 柳田國男の先輩なのか・・・そうすると東京帝国大学法科大学卒業・・・似たような調査関係の仕事を経て・・・官吏として民俗学の研究か・・・内藤湖南こと内藤虎次郎に兄事・・・ん?北韓吉林旅行記の中に内藤氏悪寒ぎみ・・・とあるから、この旅行は内藤湖南も参加していたのか?内藤湖南は大里の5年先輩・・・この旅行はどうやら間島ノ版図ニ関シ清韓両国紛議一件/附属書(内藤虎次郎嘱託及調査報告)に関連しての旅行日記なのかもしれません。

 事の起こりは、明治39年5月23日に政務局長から大阪に暮らす内藤虎次郎(すでに、外務省嘱託になっていて、大本営も嘱託にしようかと画策しています。そして履歴書を前年に取り寄せています。二重の嘱託にはならなかったようです。この履歴書に徳富蘇峰の推薦状がついています!署名は徳富猪一郎になっています。)に対して上京するように指示が出たところから始まるようです。内藤虎次郎が満州に行ったことがあるかどうかを7月28日に大阪朝日新聞社に問い合わせています。ということはこのとき大阪朝日新聞の編集に携わっていたということなのでしょう。そして、面白いことに内藤は、明治40年から京都帝国大学に新設された文科大学史学科の東洋史学講座講師になっています。そして、明治42年に文科大学教授・・・この件に関しては・・・文部省が難色を示します。湖南を京都帝国大学教授にするという決断を下したのは当時の学長・狩野亨吉であるが、文部省が難色を示します。WikiPediaによれば学歴が・・・秋田県の伝習学校(後の秋田師範学校)・・・ん?・・・大本営の履歴書には秋田師範学校と自書、明治16年4月から明治18年7月まで秋田師範学校在学、7月高等師範科卒業?2年半ですから中等師範学科かな?いや、中学師範予備科を分離し、秋田中学校を卒業して、半年の養成を受けた?wikiPedia記載の綴子小学校の主席訓導になっているのは履歴書には無し、明治20年から東京で英語の修業・・・・・・卒業という学歴が問題になったとのこと・・・まあ、4月開講の講座を持ち、基本的には別の仕事で飛び回っていて、授業などはほとんどしない講師が教授になるんですから・・・教授になれば、翌年には教授任期を1年こなしたことで京都帝国大学から文学博士号を贈られます。この頃は博士論文など書かないで、推薦で博士ですから、関東調査の報告書が学位論文に相当することになるのでしょう。しかし、この報告書は刊行されていないようです。

 さて、どうやら、大阪朝日新聞社への問い合わせとあわせて、内藤に対して、京城にいる中井喜太郎が調査した間島問題に関する報告書を参考のために読むように指示を出しています。この報告書は見当たりませんが、中井の間島問題ノ沿革として完成させるための草稿のようなものでしょうか?この時、内藤は、総監府気付となっています。10月8日には内藤は奉天から、政務局長に間島問題に関する清国の書類を閲覧できるように交渉してほしい旨、政務局長に交渉を頼んでいます。そして10日には外務大臣は奉天の総領事館に閲覧要請をするように命じています。

 この後、調査報告を書くために色々とやっているのですが、明治40年8月23日に、間島問題の調査報告書が仕上がらないので政務局長に陳謝の手紙が来ています。長文の手紙で、達筆過ぎて読むのが大変ですが・・・地図や関連資料の手配など、かなり苦労しているようです・・友人から借金したとか・・・韓国の外交文書も手に入らないか?とか・・・そして政務局長は9月23日に調査報告書の完成の時期を問い合わせの電報を打ち、追いかけるように、督促の電報も打電しています。

 ここで、外務省が絡んできています。11月15日に外務次官が韓国宮内府承文院所蔵の間島に関する清国と韓国の間の往復外交文書を内藤が閲覧できるように総監府の総務長官に依頼しています。11月19日に、この件について、大里が政務局長にこの文書の進達の件を報告しています。ここで、大里と内藤がつながってくるというわけです。何やら蒙古源流という本の閲覧に関して、内藤はやらかしているようです・・・先年も満州軍総司令部の機密費を使って・・・とかやっています。外務省も大変だ・・・この内藤虎次郎、面白い人物です!後で、もう少し調べてみましょう。

 ここで提出した報告書が・・・間島問題調査書これかな?ああ、これの最後の部分に、韓国の外交文書を見たいというやつがついています。

 明治41年の年明け早々の1月19日に外務省は京都帝国大学に内藤の行方を照会しています。何やら、色々とやってるのでしょう・・・そして、外務大臣は7月28日に内藤の調査旅行の件を奉天・吉林の各事務代理、及び長春領事に通知します。

 この旅行記を調べたら、間島問題の報告書もチェックしてみましょう!楽しみがまた増えそうです。とにかく、8月14日に下関を出発することになるわけです。

 まず、日本の下関を出発します。大禮丸という船で・・・この船は砕氷船?・・・朝鮮の津という場所に到着します。津・・・つまり港に着いたわけです。これだけではどこの港か不明です。津に9時について、松本理事官を訪ね、午後2時に津をトロッコで出発して午後6時に鏡城に着くとあります。鏡城近くの港、トロッコ、つまり人車鉄道でつながっている所となります。韓国水産誌. 第2輯 鏡城の108コマに良い地図がありました。

 この地図によると、下関を出た大禮丸は獨津錨地に投錨し、そこからボートで獨津へ上がり、松本理事官を訪ねたことになります。獨津の座標は 41°40'20.77" N 129°42'24.59" E です。


 明治42年の第2艦隊報告(8)によればこの獨津は港口は広いので、外海と変わらない、そのため、波浪は高く錨地としての価値はないが、鏡城が近いので、荷物の通過は多く、船舶の出入りはかなりのものである。今では清津が開港したため、港としての勢いは弱まっているようだ。鏡城まではおよそ22町あって、平坦な良い道が通じている。

 桟橋の設備はなく、海岸を適宜に使っている砂浜なので、危険はない。真水は井戸が数か所あるがその質は良くない。食糧は鏡城から運んでいる。回漕店2店には鏡城市外電話がある。これで鏡城と通話できる。郵便局がないので、電報はこの電話を使って鏡城郵便局に委託して打電することになる。獨津には5人の日本語を話す朝鮮人がいる。とのこと・・・

 明治40年の韓国駐箚軍 守備兵配置移動の件によれば、獨津の守備隊が第51連隊第1中隊の1小隊から、歩兵第49連隊第3中隊の1小隊へ配置替えになっています。つまり1小隊がここに分駐していたことになるようです。歩兵第49連隊は日露戦争末期、13師団を新設する際に設立された連隊で、山梨県から徴募された兵士から成るものです。歩兵51連隊も同様の経緯で編成された名古屋の連隊ですかね?

 明治39年ごろの日本海は機雷が浮かんでいたようです。日露戦争が終結後も触雷事故は結構あったようです。浦塩より浮遊の水雷とのこと・・・石垣隈太郎所有で明治37年、陸軍に徴用された1876年進水の豊臣丸1456トンは明治39年6月14日に釜山から獨津に航行中触雷し沈没しています。生死不明証明書下付の件 そして、この沈没で、騎兵17連隊に送られる軍刀4振り騎兵銃4丁とその関連装備品や双眼鏡などが失われ別途調達されています。兵器補充の件 他にも上等兵が行方不明・・・

 触雷事故は・・・午後9時5分、速力8と4分の1ノットで航行中、右舷1番船倉下部に触雷、船首前部が爆破破砕され、3分で沈没・・・爆発が起こったとき、船長は直ちに触雷と判断し、機関を停止させ乗員の避難を開始・・・その1分後に2回目の触雷・・・そのとき、近くを通過中の慶寶号に救助されます・・・豊臣丸損害賠償の件・・・この文書は面白い・・・横浜のバン・ニーロップ会社が、石垣隈太郎に売り渡しています。横浜での現状渡しのようで・・・日露戦争期間中には日本政府の買い上げには応じないという特約付きの売買です。書類を眺めると修理は広範に・・・これって、かなりのぼろ船?錆びて、あちこちにパッチを当てて、機関は蒸気が漏れていたみたいな感じ・・・オーバーホールしてメタルなども打ちかえて、パッキン類の予備もずいぶんと作っています。備品などの損失を眺めると、当時の物の値段が垣間見れます。松茸や鮑などもあるなあ・・・バタ、ジャミ、ココア・・・ああ面白い!しかし。この事故で50名弱の命が失われたようです。


 會寧地区の調査に向かう騎兵が持った軍事機密地図が失われたとのこと・・・国境地帯の地図は軍事機密でしたから・・・とにかく、五万分の一の地図が存在していたわけです。

 また違うものを見てしまった・・・

 さて、日本海の状況もわかったし・・・クズ鉄のような船も生き返り、沈没時に船齢25年を超える船の補償を行う政府も大変・・・

 吉林省. 其1 (吉会線関係地方) この14コマ目に非常に分かりやすい地図が出ています。読めるかな?ちょっと文字が細かくて・・・とりあえず。鏡城から會寧までをたどれる部分を切り取ってきました。

 この時代すでに、清津が交通の中心になり。鏡城及び獨津が軽便鉄道でしか結ばれていないために重要度が下がり、清津が朝鮮北部、満州への玄関口になっていたようです。

 やがて清津へ中心が移るようですが、この頃は鏡城の外港の獨津への航路は命令航路となっていて釜山外四港寄港補助命令ノ件に出ています。原田十次郎・・・鹿児島生まれで、琵琶湖の定期船を走らせていた大湖汽船の機関手から、その社長に認められ身を起こし、日露戦争での船舶需要に目をつけ、どこから金を引き出したのか?大船を購入、それから10年で10隻の汽船を所有し、御用船で富を得、さまざまな事業を行います。青眼白眼では、こんな風jに紹介されていますが、どうやら日本ダイレクトリー 御大典紀念の慶応元年に薩摩藩春日号のに機関士見習として乗り込み、後に海軍大将になる井上良助や伊東四郎などが乗り組んでいた。明治初年に海軍をやめ、明治3年に商船三國丸に機関士として乗り、薩軍のために武器購入を行い、開船汽船会社の機関長に、太湖汽船の船舶監督・・・などを経て、明治27年小型汽船を購入・・・日露戦争で・・・という感じなのでしょう。立身出世伝も面白い・・・軍とその周りの商人との関係などもそのうち・・・とにかく、日露戦争での御用船による運航から、民間に委託されていく過渡期にあったということなのでしょう。

 ところで、松本理事官は何?

 韓国統監府の理事官のようです。大韓帝国内の要地に置かれた理事庁の理事官は領事事務を行うとともに、第2次日韓協約の実務担当として置かれた奏任官で・・・明治38年勅令第267号によって任命、明治43年勅令第354号によって終わるものです。そして、理事庁に理事官と副理事官が置かれます。叙勲を眺めていると・・・理事廳理事官の松本重敏ですかね?

 気になるのは、この頃の朝鮮に行くためにはどのような書類が必要なのか?パスポートは・・・ないのか?帝国領だから?

 とにかく、右のような軽便鉄道・・・人車鉄道、トロッコで獨津から鏡城へ移動します。

 ここで気になるのは・・・複線?単線の軽便鉄道はどのように運行されていたのか?一応、獨津から鏡城までは22町=2.4kmです。人車鉄道の運行の例としては、松山人車鉄道が2.5kmの区間を時速10kmほどで15分程度かけ、1日約15往復の運行で平均80人の乗客を運んでいます。定時運行のようですが・・・獨津と鏡城を結ぶ人車鉄道は軍が運営しているようです。後に、レールなどは転用されたり、民間に移管せれたりしているようですが・・・昭和6年ごろに転用の書類が出ていますから・・・

 しかし、GoogleEarthでは獨津から鏡城まで2.4kmでは利かない距離です・・・ずいぶんとありますが、これは何?

現在の駅名 日帝時代
漁大津駅  
漁郎駅 会文駅
 
鏡城駅 朱乙駅
生気嶺駅  
勝岩駅 鏡城駅
羅南駅  
 どうやら左の表のように、駅の名前が違うということのようです。かつての鏡城駅はどこにあるのやら?鏡城郡に属したと思われる駅を抜き出したのですがね。

 分かりました・・・今の鏡城駅は、温泉で有名な、かなり南の方の朱乙で、現在の勝岩駅が鏡城駅、座標は 41°40'20.77" N 129°42'24.59" E ここです。近くには怪しげな飛行場があります。現用なのか?

 獨津から直線道路が延びていて、いかにもかつては軽便鉄道の軌道敷という感じです。ちなみに上の軽便鉄道の写真は咸興府の物のようです。

 そして、城壁が残っており、右のように健在です。この鏡城の城壁というのはかなり短い期間で作られて、それが当時、驚きであったようです。

 しかし、いかなる理由で、由緒ある土地の名前を、別の場所につけなおしたのでしょうか?ちょっと気になります。朱乙のままでも良いような・・・朱乙は温泉町で有名だったが・・・

 初めに示した地図の示す通り、東西に長い、城壁に囲まれた街です。

 探せばあるもので、右の写真が、鏡城の南大門とのこと。吉林省. 其1 (吉会線関係地方)この9コマ目にありました。

 城は長い石垣に覆われた城壁で囲まれています。四隅には物見のような張り出しがあって、まるで・・・強制収容所を彷彿とさせる・・・まあ、城も強制収容所も同じですね。人と猛獣と檻の関係・・・猛獣から身を守るために、猛獣を檻に入れる。もし、猛獣を檻に入れられなかったら、身を守るために人は檻に入る・・・

 さて鏡城に軽便鉄道でやって来て、東門城外にある中井喜太郎宅に宿泊・・・漢城新報社長やら京城民団長などをやっていて間島問題などの調査を行った人・・・別人?寓ニ投ス・・・寓、本来の意味の仮住まいの意味で使ってるのでしょう。

 中井喜太郎=中井錦城で本を出していますね。どうやら、新聞関係や政府関連では中井喜太郎として活動しているような感じです。公人と私人で使い分けているのか?中井錦城 検索結果 変な逸話がありますが・・・朝鮮回顧録などは、なかなか面白い!111コマあたりから明治40年の間島探検の話が出てきます。笹森儀助 検索結果 朝鮮がらみの調査行はこれかな?皆、精力的な研究をしています。この統監府御用掛陸軍歩兵中佐齊藤季治郎という人も、報告を書いていますね。大里の旅行記の綴りの前の方に資料として載せられています。明治40年ごろは韓国駐箚軍 在間島韓人保護に関する件に現れてきます。調査もしてますね。

 きっと、この夜は色々な話がされたのでしょう・・・なんとなくですが、中井と内藤は、それほど話をしなかったのでは?なんって思えてしまいます。大里さんは、この旅行記で語っていませんから・・・でも、間違いなく大量の資料を作っていると思うのですがね。ただ、表には出てこない・・・簿冊の次の報告なんかがそれっぽいのですが・・・

 さて、鏡城では下國良之助の案内で、元師台に上って、帰って城の西にある尹の祠に詣て、城の内外を見物しています。元帥台は鏡城の脇を流れる川の河口にあるようです。碑があるとか・・・座標は 41°38'42.50" N 129°41'19.28" E ここらしいのですが・・・なかなか立派なリゾートが近くにあります。尹の祠・・・は不明・・・鏡城で有名なのは孔子廟のようなのですが、そこへは行っていないようです。それとも尹の祠は孔子廟にあるのか?右の写真が孔子廟です。松の木越しにいくつかの建物が垣間見られます。

 山の斜面にあるようです・・・駅の近くに靖北祠というのがあるようですが・・・左の写真座標は 41°40'20.59" N 129°39'36.26" E ちょっと不明。規模からすると、あたりだと思うのですが・・・

 可能性があるのは、右の写真のやつですかね?ただ、これは城の北ですから、こちらが孔子廟?・・・羅南から峠を越えて、駅の手前に孔子廟があるという記述もどこかで見ましたから・・・

 もう少し羅南よりにもう1つそれらしい建物があります。



さあ困った、どれが何やら?




鏡城では市が開かれ、毎年10月から3月まで1と6の日に市が立つとのこと。



観海寺は西方1里あまり・・・4kmちょっとのところには、右のようなお寺のような建物があります。



 祠を眺めて、鏡城の城内外を眺めた・・・下國良之助・・・この人は中井錦城の無用の書. 丑の巻の127コマの鏡城の項目でこの地の長老として紹介されています。

 下國良之助・・・思い当たるのは、沖縄の中学教頭、博物を教えていた・・・まさかね。まあ、要調査か・・・明治28年10月から翌3月まで半年間の中学生のストライキ・・・

 鏡城は清正に2度占領されていますから、この時期でも見るものはなかったのかもしれません。鏡城の守備軍が・・・経国大典の195コマあたりから出てますね。兵制をちょっと学ばないと細かな内容までは理解できないなぁ〜

 このあたりで1回切るとしましょう。次は羅南へ・・・

(2012.11.20)

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