歴史の中をうろうろ(6)
 日韓併合でどんな変化が・・・(6)

 朝鮮の風景へと戻るとしましょう。
 右がパゴダ公園です。現在はタプコル公園と言うようです。この公園から三・一独立運動が起こったと言われる場所です。

 写真中央にある塔は基壇3層と塔身10層から成る大理石の仏塔です。

 基壇の3層と塔身は4層しかないようです。基壇はどこまで?見えないところに3段の基壇があって、7層まであるとか?この場所は、もともとは高麗時代に興福寺があった場所で、一時廃墟となっていて、李王朝7代国王世祖が1464年に円覚寺としてよみがえられます。この塔はこのときに造られたもので、10代国王は廃仏を行い寺は王宮での音曲を司る掌楽院にされ、妓生の養成学校のようなものに変わります。そして、16世紀に入るころには、再び廃墟となり・・・1893年に朝鮮政府の財務を担うべくして入国したイギリス人ブラウンJohn Mcleavy Brown、通称:柏卓安がという人物が1897年にイギリス人ブラウンが26代国王高宗の名を受けて洋式公園を作り、1920年に開放したものです。イザベラ・バードの朝鮮旅行の頃は、ヨーロッパの影響を大きく受け、風景が変わりつつあった時代なのかもしれません。この写真にある八角堂は1902年あたりに造られたもののようです。

 まともな橋は無いとかイザベラ・バードは述べていますが・・・清渓川にかけられた石の橋が存在しますね。1420年ごろ4代朝鮮国王世宗によってつくられたようです。この橋には水位計が刻まれ、洪水の警戒に利用されていたようです。

 この時代、洪水対策に力が入れられているようで、蒋英実が発明した測雨器が設置されたりしています。

 この4代朝鮮王世宗の時代は大きな躍進の時代であったようです。日本との関係の中で海東諸国紀が著されます。この書は、次の王の命によってつくられたものですが、朝鮮通信使は世宗の時代ですから、この橋などが作られたときの人間が日本を見て来たものがまとめられています。そのうち真面目に読んでみるのも良いような気がします。

 この時代に、朝鮮通宝が発行されます。これで、貨幣経済に入るかと思われますが・・・それほど流通せずに、布と米を通貨として利用する時代が続いて行きます。

 朝鮮通信使も興味深いものです。日本と朝鮮との間での交流・・・倭寇問題とか文化交流なども為されています。この当時使われていた船はどんなものやら?これも気になるものです。江戸時代の朝鮮通信使の正使の乗った船の絵がありますね。

 朝鮮の外洋船です。こういった船で行き来していたようです。1400年ごろの日朝の交流は倭館と呼ばれる開港地に置かれた日本人居留地で行われていたようです。

 この時代の朝鮮は、基本的には貿易は必要最小限にとどめていたようですが、それでもかなりの貿易量があったようです。

 この貿易で日本は主に銅、硫黄、金と琉球経由で入って来る蘇木、胡椒も輸出しています。初期には朝鮮側は木綿や綿が主なもので、江戸になると、木綿を国産化するようになると、朝鮮人参、トラ皮、そして中心となったのは中国産の生糸、絹織物だったようです。

 この時代の中国本土との、日明貿易は室町幕府将軍=日本国王として中華帝国の冊封を受け、朝貢する形式で制限された形で行われます。この貿易は莫大な利益が上がるので・・・私貿易もかなり行われていたようです。しかし、勘合貿易が途絶えると・・・倭寇が現れます。貿易商人にして海賊・・・そういった連中ですね。朝鮮・日本・琉球・・・さらに南方へと足を伸ばして貿易を行っていたようです。前期倭寇が1200年ごろから1400年ごろまで活躍します。そして、室町幕府が明と貿易を開始すると、倭寇の跳梁は落ち着きます。しかし、義満の時代になると状況が変わり、正式な貿易は先細りになり・・・後期倭寇の跳梁が始まります。そして1500年代半ばにそのピークを迎え、豊臣秀吉の天下統一まで倭寇は盛んに活動します。

 ふむ、倭寇は日本国内の統一勢力が弱まると活動が活発になるのか・・・何か、経済的な理由がありそうな?ちょっと気になります。当時の日本船はどんなものだったのか・・・いわゆる八幡船と呼ばれるものですが・・・大型和船・・・安宅船などですね。右の写真は三代将軍家光の御座船として建造された天地丸です。大船禁止令により、その範囲内で作られた大型の関船です。当時の高速巡洋艦という感じでしょう。これに類似した船が、倭寇の主力船であったのではないかと思います。

 倭寇は機動性が高かったようですから。順風時には帆を張って帆走し、艪によって高速推進を実現し・・・ということのようです。

 この天地丸、1630年に建造され1862年に廃止となり・・・1874年以降のあるときに解体された・・・長命な船であったということです。約100トンほどの船です。

 倭寇に寄り道をしましたが・・・昌徳宮の仁政殿の写真です。この宮殿は1405年に、景福宮の離宮としてつくられたものです。しかし、1592年の文禄の役の混乱の中で焼失・・・写真のものは1623年に再建されたもののようです。

 電柱が邪魔・・・この建物、現在の様子とはずいぶんと違っていますね。これは原形に近いのか?それとも、日本が改築したものなのか?資料が不足していてよくわかりません。

 景福宮の離宮なんですが・・・なぜか、景福宮が王宮として機能した期間より長い期間王宮として使用されたようです。

 1868年に景福宮が再建され、昌徳宮は離宮になりますが、1907年に純宗が大韓帝国の皇帝に即位すると宮殿として使用されます。そして、1910年の日韓併合後も李王となった純宗の住むところになりますが、その後朝鮮総督府により改築されたようです。

 素晴らしい建物です・・・韓国には立派な建物は無かったのか?変な話に聞こえます・・・

 さて、景福宮はどのような建物なのか・・・

 まずは右の写真が景福宮の正門の光化門です。朝鮮戦争で焼失する前のものですから・・・19世紀に大院君が再建させたものでしょう。

 ただこの光化門は朝鮮総督府が取り壊しを考えますが、白樺派の美学者柳宗悦の筆の力により破壊からは免れます。

 しかし、どうやら、移築保存ということになったようです・・・ここで、ちょっと気になるのは柳宗悦です。どんな立場から、光化門の保護を呼び掛けたのか?

 「失はれんとする一朝鮮建築のために」という書が気になりますね。こうなると、読みたくなります。柳宗悦・・・興味深い人物です。私は我孫子の住人なんで・・・

 この写真で、門以上に印象的なのは・・・右の少年、なんとなくね堂々とした力強い歩み・・・

 読みましたよ「失はれんとする一朝鮮建築のために」を・・・朝鮮とその芸術の180コマからです。美しい文書が・・・1冊丸ごと2時間ほどかけて、目を通しましたが・・・感傷的な文だな・・・私にはちょっと書けないタイプのものですけどね。なかなか気に入りました。もっと、柳宗悦の著作を読みたくなりました。イザベラバードは・・・まだ3分の1ほどしか読めない・・・英語力が・・・

 光化門、お前の守りし勤政殿だ。堂々たる姿は一国の政治と儀式の中心にふさわしい・・・真似しても柳宗悦の様には書けそうもないですね。

 この勤政殿、1395年に最初の建物が建てられ、1553年に焼失、再建されたものは1592年の文禄の役のどさくさに焼けおちて、1867年まで再建されませんでした。この建物は1867年に建てられたもので、まだ新しかったのです。

 この勤政殿と光化門の間に、朝鮮総督府庁舎が作られます。そして、光化門は勤政殿正面から移され、この建物は正面から見ることができなくなったという話です。

 景福宮には様々な見どころがあるようです。庭園とか・・・ある日本人旅行客は、蓮池の水は溜まり水で流れがなく汚い感じがしたとか・・・色々言ってますけど・・・結局は好みの問題でしょうね。旅行記は、基本的には自分の文化を基準に、他の文化を比較することから始まりますから、食文化とかはかなり文化の壁が厚く、素晴らしいと思われるものでも、その素晴らしさは良く分からなかったりするものです。人は否定から入るのが好きなようですから・・・イザベラ・バードの旅行記も、第一印象は悪く、少しずつ知ることで評価が変化していくようです。

 柳宗悦の韓国びいきも、やや度が過ぎているような気もしますが・・・それもまた一つの見方・・・

 私は・・・あの草ぶきの屋根の微妙なうねりが好きですね。

 さて、右が景福宮の香遠亭です。素敵な建物ですが・・・夢殿や日本の屋根を見慣れていると、屋根の勾配の雰囲気が違うな・・・なんて思えるわけです。結局は見慣れた線にと比較しているということなのでしょう。

 直線で構成されるモダニズムの建築と比較したとき・・・建築は用途や素材に従って設計するべきであり、装飾を付けるのは原始人の刺青のようなもので、文化の程度が低いことを示すものと叫ばれた時もありますけど・・・直線のあふれた近代建築よりも、こういった民族の培った微妙な曲線というのが素晴らしく思えるのですが・・・

 曲線は、民族によって美しいとされる曲率が色々あるようです。日本だって・・・七五三なんって角の丸め方の規則があるようですから・・・民族独自の曲線の公理が、その民族の美を規定している?のかな?なんってね。

 こういった工芸的な建物だと・・・日本だったらという見方を捨てて、どのような曲線に美と安らぎを求めているのかを考える方が建設的な文化の見かたのような気がします。

 さて、右は景福宮の慶会楼です。国の祝い事の際に特別に宴を設ける時に使われる場所とのこと。池の中の3本の石橋で結ばれた四角い島に建つ楼閣・・・3本の橋は南の方から、国王、中央が国王の親族、北が臣下と地位別なんですね。

 宴席料理はどこを渡ったのやら?厨房はどこ?どんな料理が供されたのやら?気になりますね。

 二階建てになっていて48本の花崗岩の柱で支えられている・・・まあ、一階部分は高床式の建物の床下のような感じもしなくはない・・・二階部分に登るための階段が2か所にあって・・・どんな宴会が行われていたやら?冬ここで宴会は願い下げですけど・・・良い季節なら絶対に素敵ですね。いや、冬も雪を見ながら・・・悪くないかも、風さえなければ・・・蔀戸もあるようですから、それなりに工夫されているのでしょう。

 この建物庶民の建物に似てる・・・気のせい?慶会楼の2階部分の中央が高くなっていて蔀戸がある・・・

 この庶民の家も、とりあえず高床で、人が座っている外陣と、壁に囲まれた内陣に分かれているような?

 ちょっと、この小屋が気に入ったんです。オンドルは装備されているのか?それも気になりますが・・・

 この小屋なら、それほどの手間をかけずとも完成させられそうな気がしますね。屋根の様子は、月山のぬま小屋のような雰囲気だし・・・

 なんとなく気になるのは、なぜ軒と軒が接するように建物を立てているのか?まさか、独立した家屋の集合体としての家?という形態なのか?まあ、史料は沢山ありますから、朝鮮家屋の発達も何か分かってくるかもしれません・・・

(2012.10.19)

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