歴史の中をうろうろ(1)
 日韓併合でどんな変化が・・・(1)

 隣国について知らないことが多すぎることに気付きました。それは朝鮮半島の国ですね。ネットの上にも古い映像資料があることはあるのですが・・・コメントがすごいのでちょっと食傷気味、こうなると自前で集める気になるというわけです。他人が書くコメントはあまり欲しくないものですからね。自分が見たものを、自分で考えるのが好きなんでね。

 日韓併合の写真帳などがありますから、その中から美しい写真を拾い出してみましょう。

 韓国の京城の南大門、立派な石組の上にそびえ立っています。これと比較するネット上の写真が色々とあります。

 この写真は美しいのですが、生活感がありません。過去の歴史的な立派な遺物という感じです。これより、私が好きな写真は・・・実は、この門の周りに家々が立ち並び、人々が生活している姿を撮影しているものです。

 確かに、この日本統治を象徴する写真に比べると、場末の門のような感じがします。しかし、日韓併合が行われる頃の朝鮮半島の政情を考えるとそれほど違和感がないような気がします。いくつかの国の利害の対立の中で国が滅びようとしている中で、官有物が修理されることなく、発展の基盤になる投資などが行われなくなっているであろう時期を考えるとね。

 この草ぶきの民家?どのような性格を持った建物なのか気になります。そして、この場所が城内なのか城外なのか?

 南大門というと都城の南の端の門ですから、この門の前での商売が盛んであったということは読み取れますね。

 寒い地域の草ぶきの板張りの建物か・・・屋根は低く、オンドルが設置され、それを取り囲むような 建物の構造なのでしょう。

 この時代の朝鮮の基本的な家屋の構造はどのようなものなのでしょうか?これまた古い本を引っ張り出して、その記述を眺めることにしましょう。

 残念なことにハングルが読めないので、基本的に日本語の文献しかあたれないのが少々問題ですがね。

 基本的には、オンドルの無い大きな部屋が1つあって、その脇にオンドルを設置した小さな部屋がいくつかくっつく形のようです。男女が同じ空間を占有しないようになっているとのこと・・・オンドルは石で組まれ、それを土で覆い、その上に油紙が敷き詰められ温かくなっているとのこと・・・これが、中級クラスの人の建物であるとなると、この南大門のあたりの建物は仮設住宅か、仮設店舗なのか?と気になるわけです。

 この、生活感あふれる門前の様子・・・ふと、NHKの大河ドラマの平清盛・・・この中に出てきた半壊の門の前での人々の営みのシーンが思い起こされますね。

 南大門は、1395年に起工され、1398年に完成。正式名称は崇礼門は、俗に南大門とのこと・・・1448年と1479年に大きく改築され、1907年、日本の皇太子嘉仁親王の行啓のための街路整備で両側に続く城壁が撤去されて、門だけが残ったとのこと。都城の威容のために巨大な門が造られ、そして残ったということですね。

 右は京城鐘路の写真です。路面電車が走っています。広い通りです。この道の両側の瓦葺の建物はいつの時代のものなのでしょうか?

 街路も行啓に伴って整備された結果として右のような広い街路になったのか?それとも、行啓の結果ではなくもともとの
都市計画でこのような広い街路が設定されていたのか?それも気になります。

 古代から連綿とつながる中国の都市の伝統を受け継いだアジア諸国の都市は、こういった大きな通りを持っていますから・・・

 この写真と比較されるようにして現れる写真がありますね。それは、大通り沿いに草ぶきの屋根の家が連なる風景です。

 これまた、都市の街路の雰囲気のある写真です。人の大きさからすると、道幅はあまり変わらないようです。

 瓦屋根と草ぶき屋根を比べると、草ぶき屋根はしょぼいイメージがありますが・・・寒冷地仕様としてはどちらの方が合理的なのか?近代都市は、防火とかそういったもので不燃化が進められています。都市計画の思想の違いなのでしょうか?

 まあ、日本だって・・・時の流れの中に忘れられたような昔の街道沿いの家屋の雰囲気って、これですね。日本にもいまだにこの風景に似た場所がありますから・・・都市から順々に旧来的なものが駆逐されていくということなのでしょう。

 そして、瓦などのハイカラな商品があふれるようになると、こういった建物は姿を変えていくということなのでしょう。

 しかし、基本的な間取りはそう簡単には変わらなかったようです。


 この写真で興味深いのは、日本の江戸の街並みに近い気がすることです。通りにはみ出して立つ小屋・・・多分6畳一間程度の大きさのものですが、近世風俗志―守貞謾稿に木戸に建つ自身番所の図があります。日本の江戸の街も似た感じだったのでしょう。

 そして、この街路の写真の手前の部分の道幅がすごく広くなっていることが気になるわけです。

 日本の古い街路でも、こういった道幅の異なるものがありますね。広場としての性格を街路の一部に持たせるものですね。まあ、都市などはそれを建築する材料によって大きく雰囲気が変わりますが、基本的にはあまり変わらないということなのでしょうか?


 王宮である景福宮ですね。なかなか立派な建物であります。

 この建物の瓦と、鐘路の建物の瓦の様子が似ていますから・・・2つの街路を写した写真は年代的な差ではなく居住者の差を表していると考えればよさそうです。

 朝鮮の身分秩序はどんな具合になっているやら?

 ちょっと調べてみるとしましょう・・・良く聞くのが兩班という階級・・・民の支配を行う官僚階層で士大夫というやつのようです。

 兩班・・・文班つまり文官と武班つまり武官をまとめて言い表す言葉のようです。高麗王朝が中国の官制を倣って文官と武官を統治機構の中に作り出し、王族・門閥貴族は文官として統治をおこない、その下に武官が置かれ・・・例によって、軍事クーデターのようなものが起こり・・・元に降伏することで軍は解体され・・・古典的な兩班の制度は解消・・・大地主である王族・門閥貴族の私兵である高麗軍は消滅、これに代わって、財をたくわえて来た中小の地主層が小作に耕作させ、自ら戦闘集団へと変わっていくということのようです。国軍の弱体をうめる形で、支配階層へと中小地主が進出していったということのようです。

 やがて李氏朝鮮の時代になると、地方豪族を官僚から排除し、科挙制度の改革を行います。そして、新規に台頭してきた在地地主などの地方両班などを中心とした勢力が新しい兩班階層を形成していきます。どうやら、細かな規定は経国大典に記されているようですが・・・読んでみるか・・・6巻本だな・・・漢文で書かれたものであるようです。漢文ならある程度は読めますから・・・どうやら経国大典の3巻に規定があるようです・・・罪をおかした者や、庶子とか・・・色々と受験制限がありますね。近代デジタルライブラリー - 経国大典 6巻この119コマあたりから規定があります。

 科挙を受けることができるものが兩班なのでしょうが・・・身分制度としては身分が高いのは科挙に受かった現役の兩班とその下になる中人・・・雑科担う階層と、常民・・・一般に農民と賤民、賤民でも良民になれる可能性がある奴婢と常民になる可能性が否定されている白丁が基本的な身分階層で・・・

 この中で科挙の受験資格を持つものは・・・現役の兩班と常民と奴婢もまた常民になる可能性があるのでここまでですか?中人も技能の世襲を基本に科挙を受けにくいようですが、中人も固定された身分ではないようなので、常民に移行すればこれまた受験資格は生まれることになるようです。したがって、白丁以外はすべて、科挙の受験資格を有する意味での兩班・・・しかし、科挙に及第して政府の役人になっていないと実効的な力を持つには至らないということのようです。

 なるほど、受験資格があるというくくりなら、国民の大多数が兩班といえるのでしょう。これでは、現在の朝鮮半島に暮らす人の多くは兩班と称するのは不自然ではないことになるのでしょう。

 右が統監府の建物です。これを見ると明治時代の立派なものというのはどうやら、欧風のものなのでしょう。

 多分、明治の日本人は目いっぱい背伸びをしてヨーロッパに追いつこうとしていたのでしょう。日本風の屋根をのせた洋風建築なんってものは、この時代には考えなかったのでしょうか?

 しかし、立派な建物です。日本的なイメージはなし・・・どうやら日本の朝鮮経営は、朝鮮を日本のようにするというのではなく、あくまでも、西洋風を目標に改造していったということになるのでしょうか?

 まあ、明治という時代が、開国とそれに伴う欧風の文化の受容であり、徳川幕府時代とは違った国であることを内外に示す必要があった時代であるからなのでしょう。

 しかしこの建物は明治40年前後の建物ですから、ちょんまげを結って歩いていたときから半世紀もたたない時期に、日本人の企画で朝鮮に建てられたものですから、明治の人間たちは非常に強いヨーロッパに対する憧憬があったということなのでしょうか?

 類似の建物としては、大審院の建物があります。なんとなく、この時代のヨーロッパの流行を最大限に取り込んだ立派な建物ですね。

 確かに、草ぶきの屋根が連なる街路との比較では、旧時代と新時代という言葉で表せる以上の差が感じられますね。

 新しい文化は、その地域の中央から始まり、徐々に浸透していき、旧時代を払拭していくことになるのでしょう。

 建物や制度・・・その時代の最新のものを日本が徳川時代の遺風を排除した形で朝鮮に持ち込んだということなのでしょう。そうすると、中華帝国風から欧風な日本帝国の風が移殖されたということなのでしょう。

 まあ、まだ日本も欧化しはじめて半世紀もたたないのにこういった建物を作るとは、なかなかやるものです。

 そして、裁判制度も変わり、同様に警察制度もずいぶんと変わったようで、日本風?の洋装した警察官が現れてきます。それと対比されるのが旧時代の警察権を持った人々の姿ですね。

 右の写真が旧時代の警察権を持つ人で右の方が身分が低いようです?どうやら、帽子というか冠に違いがあるようなのですが詳しくはわかりませんね。左から警視・警部・巡査に相当するのではないかと思うのですが・・・

 日本人も江戸から明治になって衣服が大きく変化します。明治40年前後の日本で洋装をしている人々の割合はどのくらいなのでしょうか?ちょっと気になる部分です。

 朝鮮でも、この時代中華帝国の冊封から離れ、欧化されつつある日本を中心とした外交秩序となり日本に税を納め日本の暦を使い、日本からの出兵を受命し、日本へ救援を求めることができるという・・・・日本帝国の冊封を受けるというぐらいの気持ちで日韓併合を決めたのかもしれませんね。

 ところが、日本が幕藩時代から新政府に変わったのと同じぐらい大きな社会的な変革を伴う変化が起こったということなのでしょう。

 ふむ・・・ちょっと新しい興味が生まれました。それは、日本の幕末の映像資料が乏しいが、朝鮮の映像資料はかなりあるので、朝鮮が欧化していく姿をたどるのも面白いかと・・・まあ、日本も江戸の風俗を描いたものがずいぶんとありますから、その比較も可能ですが、絵と写真ではやはりリアリティーに差がありますから・・・こういった比較をしてみると、どんな歴史が見えてくるのか?文化の受容というのはなかなか興味深いものです。
(2012.10.07)

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